カナリア・ファイル2〜傀儡師(くぐつし) 毛利志生子(もうり しうこ) 集英社スーパーファンタージー文庫 目次 プロローグ 1.パイル(PILE) 2.シャッフル(SHUFFLE) 3.スプレッド(SPREAD) 4.アップライト・アスペクト(UPRIGHT ASPECTS) 5.リバースド・アスペクト(REVERSED ASPECTS) 6.ボトム・カード(BOTTOM CARD) エピローグ ☆主要登場人物☆ 有王(ゆうお) 道教をベースに発展した「呪禁道《じゅごんどう》」の現在の継承者。呪禁師《じゅごんじ》としての誇りも気概もなく、自分から依頼人を探そうなどとは考えもしない。普段は若宮神社の裏手にあるワンショット・バー「辻」でバーテンをしている。 若宮匠(わかみや たくみ) ワンショット・バー「辻」のオーナーだがその正体は御霊神。かつては人間だったが、憤死したのち、祟りを鎮めるために神に奉りあげられた。空位だった若宮神社に勝手に居座り、有王をいいようにこき使っている。 花映(かえ) 人間と同型でありながら独自の習慣や性質を持つ「古族」である。狼の性質を持つ「狼人」で、その能力は人間よりも精霊に近い。綾瀬《あやせ》の元にいたが、虐待されることを嫌がって真実夜《まみや》たちと共に一族から逃げ出してきた。 燿(よう) 崇が拾った少年。少女と見まがうような顔立ちをしている。口をきかないが、不思議な存在感と雰囲気で相手の気持ちを安らげる。実は綾瀬の一員だが、ある特異な能力を持っているおかげで一族から執拗に追われている。 高田崇(たかだ たかし) 鬱屈した心を抱え、不良仲間と盗みや恐喝を繰り返しているうちに特殊な呪物《まじもの》「金蚕蠱《きんさんこ》」にとり憑かれてしまった少年。失踪していた父の死をきっかけに有王たちと関わり、そのため綾瀬一族の事件に巻き込まれるが……。 田原坂(たばるさか) 青年弁護士。崇の父親の保険金問題を担当していて「金蚕蠱」事件に巻き込まれるが、持ち前の柔軟性を発揮して事件の解決に奔走した。有王たちの協力で「不思議なもの」に対する適応能力が極めて高い(?)常識人。     プロローグ  淡い藍色しか保てない夜の空に、青白く丸い月が浮かんでいる。  窓辺におかれた椅子にかけたまま、彼女の目はその月を映していた。  青灰色の瞳が、月光に静かな輝きを放つ。  白い肌は月光を受けてより白く、時には青く、外よりも暗い室内で輝いていた。  真冬なのに、室内には暖房がない。  しかし、身をふるわせることもなく、彼女は黙って座っている。  遠く階下から、道を走りすぎる車の音が聞こえていた。  ———何だろう……?  その時、ふと彼女は意識を取り戻した。  岸壁に穿《うが》たれた大きな穴に潮が満ちるように、空っぽの体内に『何か』が満ちていく。  それが『何』なのかは分からなかったが、彼女はゆるやかに両手を動かし、自分をいぶかしむかのようにその両手を見つめた。  手を動かそうと考えた自分と、そうすることのできる自分。  突然の出来事に、彼女は混乱し、驚愕し、歓喜した。  しかし、何かが違う。  ———そう、すべては、あの夏の日に終わっているはずだったのに……。  体の中の空洞には、無数のデータに似た知識があった。  感情は、どこからとも知れず沸き上がるものだと信じていたのに、今は一つ一つ、『物』のように取り出して眺めることができる。  それは、自分にとっては悲しむべきことだと思ったが、体のどこを捜しても、悲しみゆえに流す涙は見つからなかった。  ———帰らなくちゃ……。  彼女は立ちあがった。  立っているという感覚も、足にかかる体重すら感じられなかったが、そんなことは、もうどうでもいいことだった。  窓に手をかけ、嵌《は》め殺しのガラスに、力いっぱい両|拳《こぶし》を打ち付ける。  激しくも空虚な音が響き、寒気が風と共に室内に流れ込んだ。  ———ああ……!  月が近い。  空が近い。  後ろで誰かがわめいたが、彼女の耳には風の音の方がよく響いた。  割れて落ちたガラスの上を、彼女は気にとめることなく歩いていく。  冷たいであろう手摺りに手をかけ、その場所の高さを確かめることもなく、彼女は一息でそれを乗り越えた。  その瞬間こそが、長くて短い旅の始まりだったのだ。     1 パイル(PILE) 「まったく!」  乱暴な手つきで灰皿の中身をゴミ箱に捨て、魅伽《みか》は壁にかけた黒いカーテンを引き開けた。  さっと光が部屋に差し込み、ぼんやりとした蝋燭の光だけで演出されていた怪しい雰囲気が途端にちゃちな大道具小道具へと姿を変える。 「こんなトコで、煙草を吸うかしらね、フッ!」 「オオセノトオリ、オオセノオトリ」  憎々しげな魅伽の言葉を受け、部屋の隅の鳥籠におさまっていた赤いコンゴウインコが声を上げた。  カーテンを開けたついでに窓も開けると、部屋に漂っていた香と煙草の奇妙なブレンド臭がどうにか薄くなった。 「いくら客だって、許せることと許せないことがあるんじゃない? ねえ、ジャック?」  と魅伽は長い巻き毛をかきあげながら、たった一人の同居相手であるコンゴウインコに問うた。  メスながらジャックという名を頂いているインコは、ソウデスナ、と評論家めいた言葉を繰り返し、明るくなった室内でヒマワリの種を食べ始めた。  時間は、昼を少し回ったばかりだ。  いつもなら、まだお客を入れる時間じゃないのに、と自らも飾り棚の中から煙草を取りだし、部屋の中央にしつらえられた黒い布掛けの丸いテーブルの前にある、豪勢だか悪趣味だか分からないような背もたれのついた椅子を窓辺まで引きずってきた。  椅子にかけ、足を組んで一服すると、それでも、幾分かは心が落ち着く。  冷静になって考えてみれば、動揺したのは、客が無遠慮に煙草を吸ったせいではない。  壁にかけられた木製のウィジャ盤をぼんやりと眺め、それから飾り棚の上の水晶玉、部屋の隅の銀の水盤というふうに、順序よく室内の商売道具に視線を一巡させる。  壁には全面に黒い布をはり、二カ所に置かれた銀の燭台には、溶けた蝋がつくる幾筋もの流れが美しい、赤い蝋が設置してあった。  これらのほとんどが役に立たない、魅伽には必要でないものばかりだった。  しかし、客が占い師にもとめるのは怪しい雰囲気であり、現実離れした空気であり、異彩を放つ服装と強い影響力をもつ言葉なのだ。 「いいんだけどね」  ふん、と鼻をならして煙草を消し、魅伽は立ちあがった。  丸テーブルの上から、使いこまれたトランプを一枚つまみあげる。  普通のトランプとは明らかに違うカードだったが、知識のない者が見てもスペードのエースと分かるくらいの特徴は備えていた。 「変なカード」  魅伽はつぶやいた。 「変な依頼人に、……変な結果」  魅伽をいらだたせたのは、つい先刻までこの部屋にいた人物ではなかった。  その人物の持ち込んできた『依頼』と、それに関して自分が出した答えのせいだ、と魅伽ははっきりと自覚していた。 「スペードは抜き身の剣。死と夜と破滅の象徴。エースは挫折と死と不幸」 「マッタクデゴザイマス」  うんうん、としかつめらしくうなじて、ジャックはヒマワリの種を趾《あし》に持ったまま魅伽の言葉に同意を示した。 「でもね、ジャック。ほら、ごらん! 逆位置ならいいわ。困難からの脱出よ。……逃げちゃいましょう」  すっ、とカードを逆様にし、魅伽はにっこりと笑った。 「後始末は、みーんなあの男に、任せてね」 「バッツグンノゴイケンデス!」  けけけけっ、とジャックが気味の悪い声をたてた。  魅伽は苦笑して窓を閉め、すぐさま自分の言葉を実行するために動き始めた。  崇《たかし》が東京駅に行ったのは、伯母を見送るためだった。  母、伽奈子《かなこ》の姉である静原加世子《しずはらかよこ》はでっぷりとした年配の婦人で、体格だけならば相撲取りにもおとらない。  しかし、もともと体力はないらしく、太った体を持て余して歩くことすら困難という有様であった。  彼女が上京したのは、一つは年末に亡くなった崇の父の墓前に花をたむけるためで、もう一つは、崇の姉の洋子の様子を見るためである。  名古屋の大店のご内儀である伯母は、用をすませると忙しく帰宅する意思を告げた。  当然のように、崇は荷物持ちにされた。 「まあ、洋子ちゃんが元気そうで安心したけどねえ」  土管を思わせる体に縫いの着物をまとい、伯母は息をきらしながら崇に言った。  口では絶え間なく激しい呼吸が繰り返されていて、吹きさらしのホームに上がっても少しも寒そうには見えない。  事実、伯母は大粒の汗を額に浮かべ、それを拭き取るのに忙しくて、崇に持たせたままの荷物を受けとることもしなかった。 「伽奈子もずいぶんと力を落としてみたいだし、崇ちゃん、男の子なんだから、しっかりしなくちゃいけないよ」 「わかってるよ」  やや邪険な口調で言い、崇は伯母の背を押した。  すでにホームに入っている新幹線に、とっとと乗って欲しかったのだ。 「ほら、伯母さん。走れないんだろう。乗り遅れるぜ」 「なんだい、押すんじゃないよ」  ほうほうと笑い含んで深呼吸の後に、伯母は懐から小さなポチ袋をとりだして崇に渡した。  代わりに荷物を受け取り、おぼつかない足取りで新幹線のデッキへと進んでいく。 「大金だからね。大事に使うんだよ」  ドアの向こうでくるりと振り向き、伯母はポチ袋を透かして見る崇へときつい忠告を投げてよこす。 「サンキュ、伯母さん」  ひらひらとポチ袋を眼前で振り、崇は新幹線に乗り込もうとしている他の乗客の邪魔にならないように半歩下がった。  伯母は、あいかわらず土管のような体躯で人の通行を妨げていたが、さほどもたたないうちに、座席の方へと消えていった。  発車のベルがなる。  青いラインをもった白い車体の曇った窓を、むっちりとした荒れた手が乱暴に拭いているのが見えた。 「気ぃつけて帰れよ!」  聞こえるかどうかも分からないけれど、とりあえず崇は声をかけた。  窓にできたわずかな隙間から伯母の奇妙な動作が見えたが、その意味するところはさっぱり不明だった。 「やれやれだ」  新幹線が走り出すと、年に似合わぬ大きなため息をつき、崇は両手をコートのポケットにつっこんだ。  それから、だらけた足取りでホームを降り、公衆電話が並ぶ一角へと足をむける。  伯母が新幹線に乗ったら、名古屋の方に迎えを頼む連絡を入れる手筈になっていたのだ。  ジーンズのポケットに押し込んできた財布からテレホンカードを抜き、崇は小さな紙切れに書かれた番号を馴れた手つきで押していく。  コール音が、何度も響いた。  最初はその音に集中していた崇も、あまりに相手が受話器を上げる気配がないので、少しを腹をたてて横へと視線を流した。  緑の電話がならぶコーナーには、サラリーマン風の男や旅行者らしき男女が、ちらほらと出入りしている。  急いでいる者もいれば、のんびりしているものもいたが、ほとんどの人々は電話でつながっている別空間との会話に没頭し、気持ちだけが余所に飛んでいる風情であった。  その時、崇の隣の電話にすいと黒い影が取り付いた。  思わず顔を上げると、その影は崇の動きに気付いてにこりと笑った。  美しいかどうかはわからないが、ひどく個性的な女がそこにいた。  大きな真っ黒のサングラスをかけているので、その視線は読めない。  しかし、真っ赤な唇がわずかな半月を形作っている。  真っ黒なつばの広い帽子をかぶり、真っ黒なケ−プを羽織っている。  裾のすぼんだスカートから黒いタイツに包まれた足が伸び、その先にあるのも黒いアンクルブーツだった。  緑の受話器をつかむ手も黒く、もちろん、背中に流れかかる豊で長い巻き毛も黒い。  電話の前に置いたバッグも、足下においたボストンバッグも黒ときては、いくら黒が永遠の流行色とはいえ、もはや評する言葉もないほどに異質ないでたちに見えた。  しかも、女は崇よりも背が高い。  黒い影が隣に立てば、それだけで意識がそちらに向くのも当然なのだが、それのみならず、夜を思わせる女の雰囲気が意外と華やかであることも、崇の目を引く一因であった。  耳を飾る涙形の透明なイヤリングのせいかもしれない。 「呼んでるわよ」  ふいに女が言った。  ひどく耳に残る、玲瓏《れいろう》とした声だった。  え? と崇は怪訝《けげん》そうな顔をしたが、すぐに自分が手にしている受話器から、もしもしと繰り返す女の声が響いていることに気付き、あわてて通話口に口を近付ける。 「もしもし? オレ、崇。伯母さん、新幹線に乗ったからさ……」  用件を喋りながら、再び女を盗み見ると、彼女も受話器に向かって何かを喋りかけている様子だった。  崇の意識は、電話の向こうの従姉妹と隣の女との間をいい加減な具合に彷徨《さまよ》った。  女の赤い唇は電話口でも微笑みを形づくり、有王《ゆうお》、という言葉を発した。  その言葉に崇の意識は、完全に通話中の相手を離れてしまった。  手にしていた受話器を胸の高さまで落としていることにも気付かず、崇は魅了されたように隣の女の横顔を眺めていた。  没頭していたのは、明らかにその女ではなく崇のほうであった。  しかし、横合いから伸びてきた第三者の手に気付いたのも、崇の方が先だった。  まっすぐに、口金を弛めた女のバッグへと伸びる手は、他人の財布を掠《かす》め取って自分の懐を潤す、かつての崇と同じ手合いの人間のものに違いない。 「おいっ!」  崇の手が女のバッグにかかるのと、女のケープから突然に飛び出してきた赤い塊がスリと思しき手にぶつかるのは、ほとんど同時のことだった。  短い悲鳴と共に手が引っ込み、後には、女のバッグに手をかけた崇と、話すのをやめて崇を見ている女の白い顔だけが残された。  状況的には、崇こそがスリと思われても仕方がない。  女のケープから飛び出してきた赤い塊は、どこに消えたものか気配すら感じさせない。  黒いサングラスの向こうで、女の視線がどんな険をはらんで崇を見つめているのかと思うと、柄でもない人助けなどするのではなかったという後悔の念がひしひしとわき上がってきた。 「うー、っと……」  言い澱《よど》む崇ににこりと笑って、女がサングラスを外した。  受話器はとっくにフックに掛けられ、返送口がピーピーと攻撃的な声を上げている。  テレホンカードをとった女は、サングラスと共にそれをバッグにしまい、音をたてて口金を閉めた。 「ありがと、坊や」  ひどく年上めいた口調で言ったが、女は崇が思っていたよりもずっと若かった。  切れ長の目が長いまつげの下でいたずらっぽい色を浮かべている。 「助かったわ。なにせ、これは当面の全財産ですもの」  バッグを目の高さまで上げ、女がウインクする。  それから、ポケットから名刺を取り出して、崇の前に差し出した。 「これが、私の仕事。もし、君に困ったことがあったら、今日のお礼に特別、二割引で見てあげる」  名刺の裏に二割引き、とボールペンで書き、女はそれを崇に渡した。  銀で装飾された名刺には『占い師・相良魅伽《さがらみか》』と印刷されている。  その下の住所は新宿になっていた。 「うさんくせぇ……」  心の中でつぶやいたつもりが、つい口に出していたと気付き、崇ははっとした。  あわてて顔を上げたが、女は怒っている様子もなくケラケラと笑った。 「今は、何かに一生懸命なのね、坊や」 「……そうでもないけど」  崇は言葉を濁した。  確かに以前よりは物事に対して真剣なつもりだが、何がどう変わったのかは自分には分からない。  とりあえず学校に行き、とりあえずバイトなどをしているだけで、それもこれも、燿《よう》いう名の友人と対等に喋りたいという一心であることは真実だったが。 「一生懸命なのは、いいことだわ。でも、迷ったらいらっしゃい」 「未来を教えてくれんの?」 「未来なんか、決まってないわよ」  女が笑った。 「ただね、選択肢の数や種類をはっきりさせてあげる。あなたが行き先を決めやすいようにね。それが、私たち占い師の仕事だわ」 「そんだけ? 選ぶのはオレたちの方かよ」 「そうよ。……決めて欲しいなら、そこまで決めてあげるけど、面白くないからやめなさいな。他人の言う通りに動いて成功したらね、大事なものを無くしてしまうわよ」 「大事なものって何?」 「自信と決断力」  にっ、と女の赤い唇が攻撃的につりあがった。 「あんた、さっき、未来は決まっていないって言ったじゃん」 「もちろん」  崇のつっこみにも、女は全く動じない。 「選択肢の数や種類の中から、どれを選べば目的達成の近道になるか、ぐらいは分かるからね。だって、物事はすべて根底でつながっているもの。私たちには、その流れが見えるだけ。……絶対に歩いていけないほど遠くで流れだした毒が、海流や風に乗って遠くの人を傷付けることとか。……君が、あそこに落ちてるゴミを拾ったら、それを見ていた子供が、いつかどこかで自分もゴミを拾うかもしれない、みたいにね」 「変なの」 「言葉や接触だけが人生を決めるわけじゃないわ。目に見えないことも大事だし、人生の道順は五感の全てで選べばいいの。寄り道も楽しいわよ。……あら、もう行かなくちゃ」  柱の時計に目をやり、女はいそがしくボストンバッグを持ち上げた。 「さよなら、高田崇くん。……また、近いうちにお目にかかりましょう」 「サヨーナラ!」  ひょいとケープのアームスリットから顔を覗かせ、薄茶色の大きな嘴《くちばし》を上下させた赤い鳥が言った。  人間とは比べるまでもなく小さな頭だったが、鳥ならばかなり大型の部類だろう。  ばいばい、と軽く手をふり。女は構内の雑踏に消えていく。 「待っ……!」  後を追おうとし、崇は自分がまだ受話器を手にしていることに気がついた。  耳にあてるまでもなく、とっくに切れていることは分かったが、それからもしばらくの間、崇はぼんやりとその場にたたずんでいた。  名前はともかく、女が自分の姓まで知っている理由が、崇にはさっぱりわからなかったからだ。  二月に立春をもってくるなんて、誰が考えたのだろう。  そんなことを考えながら、崇は吹き付ける寒風にコートの襟元をあわせ、小柄に体が風に流されないように前屈みになった。  東京駅で出会った奇妙な女のことを考えると、このまままっすぐ八王子の自宅に帰る気にもなれなかった。  家に帰ったって、どうせ母親は勤めでいない。  以前はいりびたっていたはずの不良仲間のアパートは失ってしまったし、学校の友人たちの多くは来年にひかえた受験のための塾通いに忙しい。  だから、崇の足は自然と高円寺駅でホ−ムを踏み、うつむいていても歩けるほど馴れた道を若宮神社へとむかっている。  別に、厄払いのために神社詣でをしようというつもりはない。  実際に、崇が目指しているのは、若宮神社の『神さま』である若宮匠《わかみやたくみ》が、『呪禁師《じゅごんじ》』である有王《ゆうお》という男にバーテンをさせている、神社裏手のワンショット・バー『辻』であった。  典雅な顔立ちの青年、匠が、憤死した人間の怨念を奉り上げてなだめた御霊神である、という事実は、あまりにも突飛すぎて夢物語のよううに思われたが、長身で派手な有王が千数百年の歴史をもつ『呪禁道』の継承者、というのはかなり事実として認識できている。  ほんの二ヶ月前、崇はその目で有王の呪力を確かめたのだ。  しかし、今の崇にとって重要なのは、彼が卓越した能力をもつ呪術者ということではなく、とても腕のいい、プロの料理人ということだった。  それに『辻』にいけば、友人の燿《よう》と燿の姉である花映《かえ》にも会えるかもしれない。  だが、たった一人で冷たい部屋に帰るのが嫌で、暖かい明かりと空気に守られた『辻』へと足を向ける自分が、なんだか惨めにも感じられた。  冬の暮れかけた空を背景に、うっそうとした黒いシルエットを見せる針葉樹の群れを見やり、崇は少しの間、神社の石段の下に立っていた。  両手をポケットに突っ込んでいたが、指先はしびれたように感覚がなくなっている。  道を折れれば神社裏手のワンショット・バー『辻』、きびすをかえせば駅に戻れる。  最初は東京駅で出会った奇妙な女の話をするつもりが、崇はすっかり愚痴を言いにきたような鬱々とした気分になっていた。  帰ろうか、それとも入ろうか。  一度は廃屋めいた『辻』のドアの前に立ったものの、崇はまだぐずぐずと考えていた。  その時、バーン! と派手な音をたててドアが勝手に開いた。  錆びた蝶番がひどく嫌な音をたてたが、ふうわりと崇を包み込んだ暖気と料理の匂いは、そんな音など無効にしてしまうほど。やわらかくあたたかく崇の全身を支配した。 「おう、崇」 「……んちは」  わずかに下がる小さな階段のむこうから、カウンター内にいた長身の男が崇を呼んだ。  どちらの声に反応したものか、あるいはドアの開く音のせいか、カウンター席につっぷしていた赤毛の少女が、眠そうな顔をあげて崇を見た。 「ちょっと、……近くまで来たから」  こそこそ、と表現するのがもっとも相応《ふさ》しい足取りで階段を降りながら、崇は言い訳めいた台詞を口にした。  ちらりと視線と走らせると、カウンターの手順にあるグランドピアノにいつも陣取っている匠の姿はなく、オレンジの照明を映すどっしりとした黒い光沢だけが見てとれる。 「寒かったろ? 何か飲むか?」  手際よく野菜を処理しながら、長身の男は視線もあげずに崇に尋ねた。  オレンジがかった長い髪をうなじでまとめ、ローネット風の眼鏡をかけた男は、この店の唯一バーテンであり、『呪禁師』でもある。  名を有王というが、それが本名なのか、通り名なのか、崇は詳しいことは知らなかった。  しかし、———バーテンのほうがハマってる……。  現実に彼の呪術戦を目にした崇が思うのだから、他の者には聞くまでもないのではないか。  有王自身も『呪禁師』としての自分よりも、バーテンとしての自分を気に入っているように見えた。 「今、忙しいの?」 「……普通だな。酒以外のもんなら作ってやるから、言ってみな」  崇の問いには、はっきりと有王が答える。  彼は、『ど』がつくほど派手ないでたちのくせに、頭の中には石よりも固いモラルと信念が詰まっているらしい。 「牛乳が飲みてーな……」  ううん、いいや、と首を振って答え、脱いだコートを隣の椅子において、カウンター席に腰掛ける。  すぐに磨き上げられたグラスに入った白い牛乳が置かれたが、崇はそれを手にしたものの、口に運ぶでもなく両手の中に挟み込む格好のままで待っていた。 「匠さんと燿さんはどうしたの?」 「本殿にいるんだろ。どうせ、飯になったら来るよ。さっきも、ドアが壊れるほど無茶な力で開けてくれたしな」  肩をすくめ、有王が冷たく言った。  もっとも、その冷たさは対話相手の崇でななく、話題の人物である匠に向けられたものだ。  彼は、よくそうして『神さま』でもあり『オーナー』である匠の悪口を言うのだが、面と向かっては反抗できないことを、崇はもちろんのこと、この店の大抵の常連客は知っていた。  笑い話ですむのは、現実に有王が匠を憎んではいないことを、やはり皆が知っているせいだ。  とにかく、ほんの二ヶ月前から居候を始めた燿や花映よりも、ここでの有王の地位は格段に低い。 「今日は、お母さん遅番か?」 「そうだよ」 「じゃあ、一緒に飯を食ってけよ。冷凍だけど、紅鮭をもらったんで、今夜はホワイトシチューにしたんだ」 「へへへ……、ほんとはそれが目的だったりして……」 「やっぱりな」  首をすくめて笑う崇の頭を軽く叩き、有王は再び料理を始めた。  きれいに皮をむいたじゃがいもを、スライサーで手際よくおろして水にさらしていく。 「何してんの?」 「ポテトチップスを作るんだ」 「ポテチ?」  崇はスーパーやコンビニに並んでいるスナックの袋を思い出し、不思議な気持ちになった。  あれが、じゃがいもから作られた揚げ菓子だという意識が、あまり自分の中になかったせいかもしれない。  ポテトチップスに限らず、菓子類の原料については、あまり考えたことがなかった。 「わざわざ作るんだ」 「オーナー殿のご命令でね。……この間、お客さんがもってきたポテトチップスに、他のスナック菓子のかけらが入ってたんだ。それが、妙に気にいらなかったらしくて、これから全部自家製でいけ、との厳命だ」 「でも、元はおんなじじゃがいもじゃない」 「……まあな」  崇の意見に対して何か一家言ある素振りを見せたものの、有王はあえて異論を唱えなかった。  料理好きには、それなりの意見もあるのだろうと納得した崇は、少しだけ有王に謝りたい気分になったが、それも変なのでやめておいた。 「知ってるか、崇。このポテトのスライスな。低温でじっくりあげると、中の空気が膨張して、真ん丸になるんだぞ」 「へえ、おもしれえけど、……そういうことを喋ってる有王って、何か変だよな」 「変って、何が?」 「見た目と違うからさ」  こう、もっと硬派な話をすればいいのに、と両手の指で四角をつくり、カメラのファインダーのように有王を捕らえる。  エプロンをかけた長身の呪禁師は、手拭いで両手をぬぐってから頭をかき、見た目じゃないだろ、とつぶやいた。 「それよっか、おまえ、花映と一緒に先に飯を食うか? もうじき、おれの客がここに来ることになってるんだが、匠がいると話がややこしくなるかもしれないからな」 「……それって、すっごい無駄なあがきだと思うよ」  鳩のように喉を鳴らして笑ったものの、空腹を覚えていた崇はその申し出をすぐに受けた。  夏ならば何時までもここにいたいが、冬場はやはり、あまり夜遅くなる前に帰ろうという気持ちになる。  閑散とした寒い道を歩き、もっと寒い部屋に一人で帰るのは嫌だった。 「花映を起こしてくれ」  有王がシチューの皿を用意しながら言った。  崇はうなずき、ふかふかと眠り続けている赤毛の少女、花映の肩に片手を軽く置いて左右に揺する。  何度か名前を呼ぶと、花映は小さな吐息と共に身を起こし、半分眠ったままの琥珀の瞳に崇を映した。 「何だ、崇か。いつ来たんだ?」 「さっきだけど、……花映さん、オレのこと見たじゃないか」 「知らないな」  ぐんと両腕を伸ばし、大きなあくびをしてから、花映は乱暴な手つきで自分の後頭部を掻いた。 「ああ、よく寝た」  あくびと共に言葉を吐き出し、花映は目尻ににじんだ涙をぬぐった。 「ここは暖かいし静かだから、いつもぐっすり眠れるんだ」 「花映さん、いっつも寝てんの?」 「昼間はな」  あっという間に起き抜けの表情が消え去り、花映がいつもの顔つきに戻る。  短い赤毛の下のすっきりとした美貌は、琥珀の瞳が与える攻撃的な印象のせいでひどく個性的に見える。  バランスのとれた肢体はモデルにも匹敵するが、身にまとった気配も行動そのものも、むしろ獣のそれに近かった。  その容姿だけを見て納得するのは難しいが、彼女はその肢体を犬型の獣へと変化させることができるのだ。 「花映、悪いが、先に崇と飯を食ってくれ」  ほいほい、とシチューを持った皿を並べ、茶碗にご飯をよそいながら有王が言う。  鶏をかたどった箸置きに箸がセットされ、おおぶりな銀のスプーンが横にならんだ。 「崇、漬物も食うか? こないだ、お客さんから美味しい奈良漬けをもらったんだ」 「うん、サンキュ」  おえ、と喉の奥でつぶやき、花映がペロリと舌を出してみせた。  彼女は味覚も人間とは少し違い、酸っぱいものや辛いもの、甘いものをあまり好んではいないらしい。  本来ならば、味付けそのものを必要としないこともある、と花映自身が以前に崇に語ったことがある。 「花映さん、漬物も嫌いなんだ」 「もう、こいつ、偏食の女王だぜ。酢の物は食わないし、ネギ、タマネギ系だめだしな」  ふうん、と鼻を鳴らしながら花映の皿を見ると、確かに彼女のシチューにはタマネギが入っていなかった。  イヌ科の獣がタマネギの成分に中毒を起こすことは、昔、姉の洋子に聞いたことがあるが、はたしてそれが花映にもあてはまるのかどうか、崇は不思議に思った。  シチューを食べた後、崇と花映は作り立てのポテトチップスをつまみつつ、ココアを飲んだ。  有王や花映と交わした言葉はたわいないものばかりだったが、崇はそれを貪るかのように楽しんだ。 「そういや、匠さんたちを呼ばなくていいのか? なんか、全然客がくる気配がないけど……」  崇が言いかけた時、見計らったかのようにドアがノックされた。  何気なく有王に視線を向けると、彼はひどく面倒くさそうな顔をしてエプロンをとった。  その顔付きだけで、本当に有王が『呪禁師』としての仕事を嫌がっているのだと分かったが、それでも辞めずに続けている理由は、崇は知らない。  一度、聞いてみたいとは思うけれど、今はそういう場合ではなかった。 「そいじゃ、オレ、もう帰るよ。あんまし遅くなって、母さんと鉢合わせたら嫌だしな」  有王の返事を受けてドアが開くのを持ち、コートを羽織った崇は、細い階段を降りてくる一人の男の姿を無防備に眺めた。  有王ほどではないにせよ、背の高い男だった。  年は三十歳をわずかに越えているだろうか。  浅黒い顔で、がっちりとした体躯を上等なスーツで包んだ男からは、ほのかなコロンの香りが感じられた。  男はスーツの上に洗練された雰囲気をまとっている。  崇と男の邂逅《かいこう》はわずかな時間だったが、男はちらりとも崇の方を見なかった。 「んじゃ、また来るからって、燿と匠さんに伝えといてよ」  じゃあね、と無理に元気よく言った崇に、カウンター内の有王が軽く左手を上げて応えてくれた。  しかし、その穏やかな退出のタイミングを引き裂くように、それまでカウンター席にすわったままでいた花映が脱兎の勢いで立ち上がり、椅子を蹴り倒したのもそのままに、ぐいと崇の腕を掴んだ。 「送ってやる、崇。一緒に出よう!」 「……ああ、うん。いいけど」  早く行こう、と花映が両手で崇の背中を押した。  あまりに強い力だったので、崇は前につんのめり、危うく転ぶかと思ったほどだった。 「な、何だよ、花映さん!?」 「いいから、早く出ろ!」  ぐいぐいと崇の背を押して店の外に出し、ドアが閉じた瞬間、ようやく人心地ついたという様子で花映は深呼吸を繰り返した。  店内とは比べ物にならないほどの寒気も、花映には気持ち良いくらいのものなのかも知れない。 「何なんだよ、一体?」  妙にすっきりとした表情になった花映に問い、崇はコートのボタンをとめた。  羽織ったままでもいいと思っていたが、寒さが夕方よりもひどくなっていたのだ。 「あの男、すごい匂いだったろ?」  コートも着ていないのにけろりとした顔で言い、花映が思い出したように咳き込んだ。  しかし、それは寒気のためではなく、彼女の言うところの『すごい匂い』のせいらしい。 「ああ、コロンの匂いが嫌いなのか」  納得したように崇が言うと、花映は馬鹿にしたような目で崇を見つめ、目線とは異なるあっけらかんとした様子でかぶりを振った。 「違う。死体の匂いがしたんだ」 「死体ぃ!?」 「いいから、行こう」  物騒な言葉を口にしたくせに、花映は後に残される有王のことなど知らぬ素振りで、崇を促して歩き始めた。  すれ違う人々が、薄いセーターにスラックスだけの花映を奇異なもののように眺めても、彼女は無関心なままだった。 「有王が心配じゃないのかよ?」 「あれは、有王の仕事だからいいんだ」  とりつくしまもなく、花映は崇の懸念を切って捨てた。  しかし、それに続く言葉は、いつもの花映からは想像もできないほど優しく、慈愛に満ちたものだった。 「崇は、ああいうのには、関わらないほうがいい」 「まーな。オレ、無力だからさ」 「違う」  自嘲めいた笑いを浮かべた崇の耳に、花映の強い否定の言葉が響いた。 「おまえは、今、気持ちが弱っているみたいだから、ああいうのには関わらないほうがいいんだ。気持ちの空洞に怪しいものが入り込む」 「……? それって、どういう意味……」 「いいから、もう帰れ。駅についたぞ」  どん! と乱暴に背を叩き、花映はさっさと来た道を戻り始めた。  これでは、送るというよりもただ『辻』を出るための口実にされただけだが、それでも、崇は花映が彼女なりに崇を心配してくれていることが感じられた。  気持ちが弱っている、と花映が指摘したように、確かに崇は落ち込んでいたのだ。  真面目に学校に通い始めて二ヶ月になるが、これまで真剣に授業を聞いたことのない崇には、高校二年生の教科書の内容はほとんど理解できない。  友人たちに馬鹿にされることこそなかったが、彼らが語り合う受験や公式、試験に関する話題には、崇は一度として、交じることができないでいる。  もちろん、音楽や映画の話はする。  テレビの番組やタレントの話に花が咲くこともある。  しかし、ひったくりをきれいに止めてしまった崇は、たいていの友人よりも薄い財布の持ち主になっていたし、ゲームセンターに入り浸ることも、外食を繰り返すことも、そうはできない身分に落ち着いていた。  つまり、金銭の上においてすら、友人と対等な関係を保つことが難しくなっていたのである。  別に、友人たちが金のない崇を馬鹿にしているわけではない。  崇が勝手に卑屈になっているだけかもしれない。  けれども、カラオケ一つとっても、自分のせいで友人の足並みが揃わないとなれば、それでも堂々としていろと自分に求めるのは難しい。  今まで徒党を組むことに馴れていた崇には、まだ歩き方を知らない子供がよろけるのと同じように、困難で堪え難い努力を必要とする、悲しく惨めな経験だった。  だが、『辻』にいる時だけは違った。  あの場所にいれば崇は、『息子』でも『クラスメイト』でも『おちこぼれの生徒』でもなく、ただ崇のままでいられる。  有王たちは崇に崇である以上のことを求めないし、その存在をまるごと認めて接してくれる。  無理をして、あやふやな基準や周囲の調子にあわせる必要もない。  しかし、崇には、自分がどのような『崇』であるかは分からなかった。  わかるのは、金蚕蠱《きんさんこ》にとり憑かれていた時よりも、もっと自分に対する無力感が強まったということだけだ。  匠のように『神』になりたいとは思わなくとも、崇は呪禁師である自分や獣人である自分を想像することがある。  あるいは、燿のようにカナリアと呼ばれる特別な存在になることも。  だが、さきほど『辻』の階段で擦れ違った男のように、ふと他人の視線をさらう大人になることだって、今の崇には、アパートの屋上まで十秒で駆け上がるよりも困難なことに思われた。  他人を羨む気持ちはないが、人目をひきつける雰囲気を、彼らはどこで手に入れるのだろう。 「あっ!」  突然に声を上げた崇に、周囲の控えめな非難の視線が集中した。  あわてて口を両手でおさえ、崇はすっかり東京駅での出来事を失念していた自分を恥じる。  あの黒ずくめの女は、確かに電話で『有王』という言葉を口にしていたのだ。 「聞けば良かった〜」  ちくしょー、と崇は小さな声でつぶやいた。  あんなに目立つ格好の女なら、言葉で説明しただけで充分に伝わるという自信があったのに、崇は彼女のことをさっぱり忘れていたのだ。  自分をののしりながら中央線に乗った崇は、電車のドアが閉まってから、それが三鷹までしか行かないことに気がついた。  しかし、三鷹からバスに乗り換えれば、崇の住んでいる市営アパートのすぐ近くまで帰れるので、それは一向にかまわない。  今日は伯母と一緒に駅までタクシーで出て、いつものように八王子駅に自転車を置いていなかったので、こんな小さな失敗は、さいわいにも崇に何の打撃も与えなかった。  とかく、落ち込んでいる時の失敗というものは、ささいなことでも、何倍もの大きさに感じられるものなのだ。  三鷹駅からバスに乗り換えた崇は、電車に勝るとも劣らない暖房の中で、手足を縮めてじっとしていた。  やがて、バスにセットされたテープが、崇のアパート近くの停留所名を告げる。  崇が降車ボタンを押すまでもなく、鈍いブレーキ音と共にバスが停車した。  数人の会社員や学生たちと一緒にバスのステップを降りた崇は、すっかり暗くなっている見慣れたはずの風景に、暗い海へと放流される稚魚に似た心細さを味わって立ちすくんだ。  バスから降りた人々は、少し疲れた足取りで、馴れた道を自宅へと戻っていく。  人影が途絶えると、崇の周りにあるのは、停留所のポールに点った薄黄色い明かり、無機質な道の端の街灯や植え込み越しにもれてくる家々の明かり、そして、バス停から崇の住んでいる市営アパートに帰る途中に横たわっている細長い小さな公園の明かりしかなくなった。  音もない街の一角に残された崇は、自分の周囲に散らばる明かりをちっとも暖かいものと感じられない。  空気も『辻』を出た時よりももっと冷たかった。  崇は両手をコートのポケットに突っ込み、少し先の自動販売機でホットの缶コーヒーを買って、公園へと入っていった。  遊具の周囲には子供の足がつくった穴があいている。  崇は、人っ子ひとりいない公園の、小さなブランコに腰をおろした。  青い二本の鎖に腕をからめたほど崇の体を温めてはくれなかった。  公園の植え込みが、風のない空間に黒い影を落として鎮座している。  黄色い光を公園中にのばすランタン型の街灯の上天に、青白い月が輝いている。  遠くで猫が鳴いた。  それ以外の音はない。  そんなに遅い時間ではないのに、道を行く人の靴音さえしないことが、崇は不思議でたまらなかった。  心弱い時には雑踏を歩くことすら億劫《おっくう》なものだが、あまりに静まり返った空間に身をおくのもよくないのではないか。  そんな崇の懸念を感じ取ったように、ざっ! と梢をならして鳥が飛んだ。  淡い光のヴェールに照らされた暗い空に、黒い小さな影がはばたいていく。  夜に飛ぶ鳥がいることを知らない崇は、驚いて半分だけ腰を浮かせた。 「あ……れ?」  その鳥のはばたきの起点に、一つの白い影がある。  それが、ベンチに座った若い女だと気付くまでに、崇はかなりの時間を必要とした。 「大野上勝《おおのうえ すぐる》と申します」  崇や花映と入れ違いに入ってきた男は、取り出した名刺を有王に渡した。  白地に緑のロゴマークを型押しした名刺には、大野上建設・代表取締役と印刷されている。 「どうぞ、おかけ下さい」  さすがにカウンター席を勧めるわけにはいかず、有王はテーブル席へと大野上を案内した。  中野の事務所で会いたかったのだが、花映と燿が来てからというもの、ほとんど『辻』から身動きがとれないでいる。  すでにコートを脱いで腕にかけていた大野上から、上質な生地のコートを受けとって壁にかけると、さらりと心地よい感触が手に残った。 「コーヒーでも、いかがです?」  訪ねると、大野上は恐縮です、と抑えた声色で返事をした。  響きのいいバリトンは、こんなつぶれかけた山小屋のような場所には相応しくないな、と有王を苦笑させた。 「煙草、良いですか?」 「どうぞ。灰皿をお出しします」  すでに一本指にはさんだ状態で軽く持ち上げ、大野上は有王の了解を持って火をつける。  ポットに沸いていたコーヒーを二人分カップに注いで運んでから、階段下の物置をあけて変な形の灰皿を取り出してテーブルに置いた。 「……萩焼ですね」  灰皿を見て大野上が笑ったので、有王もうなずいて見せた。  確かに灰皿は萩焼である。  そして、灰皿に使っているから灰皿だという以外、どこにも灰皿らしい特徴は備えてはいない。 「友人が、灰皿にしろといって送ってくれたんですよ。だから、こいつは灰皿です」  これを作った天童という名の友人を思い出しながら、有王は言った。  有王の友人の中では飛び抜けて無口で偏屈な男がだ、付き合いは一番長い。  大野上が笑ってなるほど、とぶやいた。  笑うと、日焼けして肌に白い歯が印象的だ。  造形は大ぶりだが、整った顔立ちのこの男は、こんな場所で呪禁師と向き合っているよりも、むしろ海や山でスポーツに興じていつほうが百倍も似つかわしく思われた。  もっとも、そこには多少の偏見が存在していることを、有王自身も理解している。  しばし無言の時が流れ、煙草をほぼフィルターの寸前まで味わってから、ようやく大野上が、姿勢を正した。  有王は大野上の動きを察し、そちらに視線を戻しただけである。 「まず、これを御覧になって下さい」  大野上が、灰皿で煙草をもみ消したその手で、スーツのポケットから取り出した白い封筒を有王に差し出した。 「これは?」 「彼女からの紹介状です」 「ああ」  なんだ、と危うく口に出しそうになったのをおさえ、有王はその封筒をそのままテーブルの端に置いた。 「御覧にならないんですか?」 「読まなくても分かります。電話でも、話は聞きましたから」 「では、……」 「大野上さん、事情は、あなたの口からきちんとご説明いただきたいのです」 「それは、……しかし」  大野上がためらいを見せた。 「事実関係は、依頼人の口から語られるべきだ、と彼女はあなたに言いませんでしたか?」 「たしかに、……そうおっしゃったと思います。けれども、事実関係とは言いましたも、……客観ではなく主観にすぎない」 「当然ですよ。主観で結構。あとで勘違いだと知れるようなことでも、あなたが事実と感じたことであればうかがいます。その上で、この仕事を引き受けるか否かを判断しますので」 「えっ!?」  大野上は飛び上がって驚いてみせた。  どこか動作に不自然なところが見えるが、見開かれた目だけは、本当の驚きに違いないのだと雄弁に物語っている。 「そうですね」  さて、なんと説明すべきだろうか、と有王は自分の記憶の中身を探ってみた。 「彼女にすら分からなかった人捜しを私が、というのは、いささか僭越ですし、お話を伺って手に負えないようでしたら、別の……もっとこの分野が得意な者を紹介させていただきます」  学生の連絡網でもあるまいが、呪術者にも横のつながりといえるネットワークが存在する。  曖昧でいい加減なものだったが、あると使ってしまうのは人情というものだ。  そして、それはたびたび有王を泣かせてきた、魔のつながりでもあった。 「人捜しの専門の者もおりますし、……むしろ、警察やその方面のエキスパートの力を借りたほうが得策かもしれません」 「しかし、……私はあまり多くの人間にこの一件を知られたくはないのです。勝手な言い分とは、承知していますが……」 「お気持ちは分かります」  有王はうなずいた。  有王としても、自分のことを呪禁師だと知っている人間は少ないほどいいのだ。  仕事を依頼しようと思いつく人間が少なければもっといい。 「とりあえず、お話を聞かせていただけますか?」  はい、とややあって大野上はようやく口を開く。  当然のことながら、彼はちっとも語ることを楽しんではいなかった。 「数日前、私の部屋から、同居人である倉内十紅子《くらうち とくこ》という女性が出奔しました。私は、彼女の行方を知り、連れ戻したいと思っているのです」 「失礼ですが、その、同棲なさっていたわけですね?」 「まあ、有り体に言えばそうですね」  煙草の煙をくゆらせながら、大野上が落ち着いた口調で肯定した。  有王は彼の言動にささやかな矛盾を見た気持ちになったが、それはわざわざあげつらうほどのものではない。 「しかし、私はまだ独身ですし、年配の方にはそれが理解できないかもしれませんが……」 「道徳は関係ありません。私も、あなたの私生活に口をさしはさめるような人間ではありませんし、事実関係だけを説明していただければ結構です」  有王が言うと、大野上はやや鼻白んだような表情になり、それから、ゆっくりと大きくうなずいた。  こうした道徳に問われる前から異論を唱える人間は、自身も道徳にこだわっていることが多い。  見かけのとおりにきっちりとした人物と見るべきか、それとも、大人から考えられた言葉に縛られて成長した人物と見るべきか、有王は少しだけ頭を悩ませた。 「私には、彼女が出ていった理由の見当がつきません。警察に届けるわけにも行きませんので、取引先に紹介された占い師に彼女の行方を占ってもらうことにしました」 「結果は?」 「『私の手には負えない』とその方がおっしゃって、あなたを紹介して下さったんですが……」 「それじゃあ、結果ははっきりと口にしなかったんですね?」 「そうです」  ちくしょう、と有王は胸の内でこっそりと悪態をついた。 「その、……倉内十紅子さんという方の写真はお持ちではないですか?」 「写真はありません」 「いつから、一緒に暮らしておられるんです?」 「昨年の夏からです」  ……それで、一枚の写真もないのか、と不思議に思ったが、絶対にありえないというほどのことでもない。 「……十紅子は、写真が嫌いでしたから」  大野上が言い、有王は先回りされたような気分になった。 「とにかく、私には、何の心当たりもありませんし、彼女が無事に帰ってくるならなんでもします。私は、彼女を……愛しているんです」  大昔にテレビドラマで小耳にはさんだ、という程度にしか認識できない台詞を、この上等なスーツに身を包み込んだ男が口にしたことは驚きに値した。  目の前でカメラが回り、周囲にスタッフがいるのではないか、ふと有王は考えてしまう。  しかし、大野上は真剣そのものだった。 「彼女には、頼れる人間は私しかいないのです。どうか、彼女を捜し出して下さい。御礼はおっしゃるだけ用意します。どうか……!!」  両手をテーブルの上であわせ、頭を低く垂れて大野上は懇願するように言った。  大の大人が、気を変えて出ていった同棲相手の行方を必死になって捜す姿というのは、客観的に見て格好のよいものではない。  有王は、この男にこそ、出奔した女以外に頼れる相手がいないのではないか、と感じた。  もちろん、芝居がかった妙な客だという印象は拭い去れない。  だが、有王はわかりました、とうなずいた。  それは、大野上の様子に心を動かされたからではなく、突然に増えた二人の扶養家族の経費捻出と、この仕事をまわしてきた占い師にわずかばかりの借りがあったためだった。  人気のない公園で、ベンチにかけたその女は、身動《みじろ》ぎもせずに前を見ていた。  存在感というものがまったくなく、崇だって、鳥が飛ばなければ同じ敷地内に女がいること自体、最後まで気付くことなく立ち去っていただろう。  無機質な黄色い街灯と月光に照らされた長い髪は、濃い黄色を残す夜の海のように黒く、膝の上で重ねあわせた両手は、菓子細工用の白い砂糖で作られたように現実感がない。  えてして、夜の闇の中で見ず知らずの他人と出会うのは不安をそそるものだが、崇がその女に感じた不安は、そうした自己防衛の意識から生じるものとは違っているようだった。  崇は、それでもしばらくはブランコに腰を下ろし、女の様子をうかがっていた。  黙って座っていると、それだけで寒気が肉体の内側まで侵入してくるというのに、女はコートも着ずに平気な顔をしていた。  白いオフタートルのセーターと焦げ茶のロングスカート、腰には細いベルトが巻かれ、ほっそりとした体のラインを露わにしている。  両手で自分を抱き締めることも、体を震わせることもない。  待ち合わせをしている風でもない。  腕には時計と思しき物はなく、時間を確かめようという動作すら、彼女は一度も見せなかった。  どのくらい時間が経っただろう。  崇は手の中で冷たくなってしまったコーヒーの缶を捨て、最後のつもりでその女へと視線を向けた。  家族や恋人と喧嘩をしてきた女なのか、それとも何か別の理由があるのか。  燿に似ている、と崇はふと考えた。  今でこそ若宮神社に腰を落ち着けているものの、東京に出てきて迷子になっていた燿を最初に保護したのは崇である。  もっとも、女の子と間違え、しかも酔っ払い二人から守るという形であったから、状況は今とは全く違っていたのだが。  崇は、ふと女を試してみたくなり、一度は捨てたコーヒー缶をとって、乱暴に蹴飛ばしてみた。  カン! という乾いた音が静かな公園に響いたが、女は驚く様子もみせない。  イライラと足元の土を蹴り、結局、崇は意を決して女へと近付いて行った。 「コンバンハ」  まだ二メートルほど離れた場所で足をとめ、崇はなるべく平坦な口調で声をかけた。  崇の姿には全く反応を示さなかった女も、声をかけるとわずかに顔を上向けた。  青灰色の大きな瞳が崇をとらえた。  薄い雲をまとった月に似た瞳は、何の感情も示さないまま、静かに崇の姿を映し続けていた。 「えっと、……何してんの?」  これではナンパだ、と思ったが、仕方なかった。  あっちへ行けといわれれば引っ込むし、財布を落としたとか、道にまよったとかいうなら、近くの交番まで案内してやるくらいのことはできる。  無論、声をかける義理などはないのだが、どうにも見過ごし切れない気持ちになっている。  自分が落ち込んでいるから、同じような状態の人間が気にかかるのかもしれない。  しかし、女は無言のまま、崇をじっと見ているだけだった。 「寒くないの?」  すうっ、と女の目が細くなった。  感情のこもらない瞳は、ゆるやかな動きのあとに微笑を形作る。  その微笑は、暗い台座で微笑む仏像のように穏やかで、つかみどころのないものだった。 「どっから来たの?」  しかし、しっかりと結ばれた唇からは、わずかな言葉も出てこない。 「どこへ行くの? 道が分からないんなら、案内してやるよ。すぐ近くに交番もあるし」 「けいさつは、だめ」  その時、初めて女が口を開いた。  半分諦めかけていた崇は、あるはずのないことが起こったような錯覚を覚え、心の中で用意していた次の言葉を忘れてしまった。 「けいさつは、だめ。そういう、……きまりなの」  オウムに似た奇妙な喋り方で、女が繰り返した。  錆びかけのブリキの人形が、ぜんまいの導きによって、どうにか無理をして動いているような印象がある。 「警察はだめなのかあ。ふーん」  どうしてかは分からなかったが、その理由を崇は聞かなかった。  崇だって、警察は好きではない。  よほどの用事でなければ行きたくないと思っていたから、自分の思考に添う女の言葉は、格別に奇妙なものには思われなかった。 「あんた、名前は?」 「くらうち……とくこ」  ぎこちない笑顔を浮かべ、女がゆっくりと答えた。 「わたしの、なまえ。……くらうち。とくこ」 「ふうん、とくこさんか。それで、どこから来たの? なんで、ここに座ってんだ?」  女から返答があったことに安堵し、崇は地面にしゃがみこんだ。  緊張が解けたせいだったが、反対に女はすくっと立ち上がった。 「いかなくちゃ……」 「どこへ行くのかって、……!!」  ふわり、と白い影のように歩き出した女に、崇はあわてて声をかけた。  しかし、その問いはすぐに絶句へと変わる。  青灰色の瞳で真っ直ぐに前を見つめたたまま、女はざぶざぶと公園の隅にある池へと足を踏み入れたからだった。 「何してんだよ! やめろってば、おい!」  自殺なら、自分の目につかない所でやってくれ、と崇は心の中で叫んでいた。  その人物の死が自分に不利益をもたらさなくとも、目の前でそういう行為を見せられたら止めてしまうのが一般的な反応だ。  スニーカーが水に濡れ、コートの裾から空気とは別の冷たさが這い上がってくるのにも構わず、崇は後ろからはがいじめにした。  途端に、背中を悪寒が走り続ける。  抱き締めた女の体は、崇の体を衣服越しに濡らす真冬の冷水よりも、もっと冷たかったのだ。 「なっ……!!」  なんだよ、これ、と崇はすっかり恐慌をきたしていた。  氷よりも冷たい女の体は、決して氷ほどの重さをもってはおらず、まして若い人間の女とも思えない軽さを持って、勢いこんだ崇とともに後ろ向きにひっくり返った。  パシャン! と音をたてて倒れ込んだ崇は、しばらく立ちあがることもできずに水辺にへたりこんでいた。  じわじわと上がってくる水は確実に崇の体温を奪ったが、腕の中で身動ぎもしない女ほどに冷たさを感じさせるものではない。  じりじりと尻餅をついた格好で這うように池を出た崇は、自分の触れているものの持つ現実に気付いて、再び悲鳴に似た声を上げた。 「なんで……!?」  地面に座り込んだままの格好でいる女の衣服は、たった今、水から上がったとは思えないほどさらりとしていた。  いや、もともと濡れていない、といった方が正しいのかもしれない。  ゆるやかに身を起こした女のスカートがさらりと揺れ、青灰色の瞳が少しだけ心配そうに崇をみつめた。 「どうして、じゃまするの?」 「ばっ、……ばっかやろお! 目の前で死のうとするんじゃねーよ!! めーわく……」 「……ないの」 「えっ?」  頭の中で渦巻く疑問符を押しやり、冷静になるプロセスとして怒声を撒き散らす崇に、女はにっこりと微笑んで見せた。 「わたしは、しなないの」     2 シャッフル(SHUFFLE)  翌朝、目を覚ました時、崇は自分がどこにいるのか、すぐには分からなかった。  寝不足で腫れぼったい目をこすり、多少はマシになったとはいえ、疲労で固まっている関節や筋肉の軋《きし》む痛みに耐えつつ立ち上がる。  室内は崇のアパートよりも随分と、暖かく、少し大きめのパジャマだけでも寒さを感じることはなかった。  隣室に足を向けると、青いソファに一人の女が座っている。  その向こうには小さな台所があり、ワイシャツの袖をめくった中背の青年が、フライパンでなにかを炒めているのが見えた。 「ああ、崇くん。おはようございます。よく眠れましたか?」 「……うん」  眠りの深さだけならば、いつもと比べようもないほどだった。  何せ、いつ眠ったのか、どんな予兆をもって目覚めたのかも分からない。  問題は時間の短さと、目覚めた後にも消えてなくなることのない一つの事件だった。  しかし、事件の当事者である女は、ただ黙ってソファに座っている。 「田原坂《たばるざか》さん、寝なかったの?」  当然のことと分かっていながら、うしろめたさも手伝って崇は尋ねた。  昨夜、訳がわからないままに不思議な女と関わり合いをもってしまった崇は、父の保険金を扱ってくれている弁護士の田原坂に助けを求めた。  彼は昨年末に崇にとりついた金蚕蠱という呪物《まじもの》にも関わり、『不可思議なもの』に対する免疫があったからだ。  しかし、人の良い田原坂を利用した、と言えなくもなかったから、崇の後ろめたさもそれなりに正当なものだった。  事実、崇は一度有王にに電話をし、どうしてもつながらなくて田原坂に乗り換えている。  二番目の頼りの人です、では、さすがの田原坂も気分を害するかもしれない。 「崇くん、玉子半熟でいいですか?」 「うん。……もお、何でもいいや」  後頭部のねぐせに指を絡めながら、崇は半端なあくびを繰り返した。  たちまち視線が涙で曇り、湯気の向こうの田原坂を苦笑させる。 「もう少し、寝ててもいいですよ。今日は、私、昼出勤ですから」 「でも、田原坂さんも眠いだろ?」 「そんなでもありませんって。とにかく、朝食にしましょうか。どうぞ、ソファにかけて下さい」  うん、と田原坂の勧めに従い、崇はスプリングの悪いソファにどすんと腰をおろした。  座ると随分と体が楽になり、徐々に目が覚めていく心地がする。 「おはよう、……とくこさん」  崇が声をかけると、ガラステーブル越しに女がにっこりと笑った。  しかし、笑うだけで言葉は発しない。  その様子は自ら言葉を封じた燿とは違い、自分の内側に該当する言葉を持たない、そんな風であった。 「とくこさんという名前は、十に紅に子供の子だそうですよ。それから、どこかへ行かなくてはならないそうですが……」  両手盆に、三人前の朝食をのせ、田原坂が台所から出てくる。 「……食べますか?」  真ん中に果物の皿盛りを、そして、崇と自分の前にはトーストや玉子やハムを並べながら、田原坂が十紅子に尋ねた。  十紅子は笑ってかぶりを振り、食事をとらない旨をを告げる。  それが何か特別な理由を持っているのか、それとも十紅子の体質そのものなのかは分からなかったが、田原坂はそれ以上勧めなかったし、十紅子も空腹な素振り一つ見せはしなかった。 「そういや、火傷! 十紅子さん、手ぇ見せてよ」 「大丈夫ですよ」  崇の言葉に田原坂が答えたが、十紅子はおとなしく崇の問い掛けに応じて両手を差し出す。  昨夜は砂糖菓子に見えた白い指が、朝日の中では牛乳の脂肪膜でつくられた細工もののように透き通って見えた。  傷や汚れ一つない、人間ばなれした手だ。  その白い皮膚の下には、赤い血は一滴も流れていないように見える。 「……なんでだろう?」 「なんででしょうね」  崇のつぶやきに、やわらかい田原坂の言葉が重なる。  いつもの銀縁眼鏡をかけていない田原坂は、弁護士というよりもちょっと老けた大学生のようだった。 「とにかく、午後の仕事が終わったら、『辻』に行って有王さんに来てもらいますから、それまでは、二人で何とかしましょう」  空元気と言えなくもない口調で、田原坂が強くたたみかけてくる。  昨夜、崇を公園まで迎えに来た田原坂は、ぬれねずみの崇と、対照的にからりとしている十紅子を見て首をかしげた。  崇が池に落ちたことはすぐに分かったが、そばにいる女性にまで頭がまわらなかったらしい。  しかも、電話口で崇は『助けて……!』と叫んだのだ。 「よっぽど、……警察に駆け込もうかと思いましたけどね」  玉子の殻を剥きながら、田原坂はぼそりと言った。  自分で助けになることならともかく、それを越える事態であることを恐れたのだという。  つまり、崇が誰かに威かされているとか、理不尽に傷つけられている可能性も考えた、と。 「ほんとに、……ごめん!」  トーストを頬張りながらでは真剣味に欠けるかもしれないが、崇は心から田原坂に詫びを言った。  ぼたぼたと水滴を垂らしている崇を、得体の知れない十紅子とともにマンションに連れてきて、風呂から着替えから母親への連絡まで、田原坂の行動には矛盾も無駄もなかった。  そこには、車のシートをびしょぬれにされ、マンションの管理人に奇異な目で見られるというおまけもついていたのだが、田原坂はさっぱり気にしている様子を見せず、崇と十紅子のことだけを気遣ってくれた。  だから、十紅子がその奇妙な特質を明らかにした時も、崇は自分が最良の選択をしたのだ、という自信すら持つことができた。  崇一人では完全にパニックを起こしたに違いないし、冷静に対処することも難しかっただろう。 「いいんですよ。……さすがに、びっくりはしましたけども」  回想したらしく、口を動かすのを止め、田原坂は側に置いてあったタオルで額の汗をぬぐった。  いくら非日常的なことに免疫があっても、すぐさまそれに馴れるというものでもない。  昨夜、崇たちを連れ帰った田原坂は、果物でもいかがですか、とりんごと包丁を取り出した。  車中でも散々、十紅子との会話に無駄骨をおっていたから、何か食べれば会話もスムーズになるかもしれないと思ったのだろうか。  そこへ、十紅子がするりと手を出した。  りんごを剥くのかと田原坂は半身後ろに引き、崇はぎょっとして手を伸ばした。  崇の目の前で池に入ろうとした女だ。  いきなり包丁で自殺でもはかられた日には、いくら田原坂でも、迷惑通り越して『いやがらせ』になってしまう。  その時、包丁がどんな風に動いたかは覚えていない。  ただ、ステンレスの流しの上を、黒に銀の波紋を光らせて、先の尖った包丁が滑っていったことは覚えている。  十紅子がおとしたのか、崇の指が弾いたのか、くるくると回った包丁は、刃先を下にして床めがけて落下し、十紅子の足の甲を軽い音とともに貫いた。  誰も声を立てなかった。  息を飲むのが精一杯だった。  しかし、十紅子はその瞬間も、その後も身動《みじろ》ぎ一つせず、悲鳴をあげるでもなく、おもむろに包丁の柄を握り、力任せに引き抜いたのだった。 「なかなか、なんと言いますか。壮絶な光景でしたね」  そこには、もう二度と見たくないという意思がこもっている、と、強い同意と共に崇は考えた。  とにかく、包丁が人の足を貫くという事実そのものが、崇の内側に強い衝撃となってこごっている。  しかし、問題は十紅子が怪我をしたことではなかった。  その傷からは一滴の血も流れず、十紅子自身も痛みを訴えなかったのだ。  しかも、あわてて身を屈めて傷口を確かめた田原坂が、放心したようにどすん、とその場に尻餅をついて崇を不安にさせた。 「『血管がありません』って言ったんだよな、田原坂さん」 「もう、あの話はやめましょう」  大きく息をつき、田原坂が請うような口調で言った。  外面は確かに人間の足なのに、中にはみっちりとした白い肉だけが、脂肪や筋さえ見えずにかたまっている。  それは、どんなスプラッタ場面よりも衝撃的で、気分の悪いものだった。  人間の体にあるべきはずの構成要素が、一つを除いて全部存在しないのだ。  にもかかわらず、まるでそれらを一つとして欠かしていないように、十紅子は平然として立っている。 「田原坂さん、足の傷も見たの?」 「傷なんて、ありませんよ。まるで、もともと無かったみたいに、それはきれいなものです。手の火傷とおんなじですね」  包丁事件後、十紅子はコンロの火で、自ら手をあぶるという奇行をも示している。  とどめは、マンションの三階から、ベランダを越えて飛び下りようとしたことだ。  田原坂と崇はそれを止めるために叫び声を上げ、階上の住人に文句を言われた。  放っておいても怪我もしない可能性もあったが、もし、そうでない場合は冗談にもならない。  それから長い夜を、崇は十紅子と睨めっこをして過ごすつもりだったが、池に落ちたせいか、ひどく驚いたせいか、熱が出始めたので、田原坂に無理矢理寝かしつけられてしまったのだ。 「ごめんな、田原坂さん」 「まあ、……乗りかかった船。毒を食らわば皿まで、ですよ」  なんとかなりますよ、と田原坂が崇の言葉を軽くいなす。  意味が分かっているのかいないのか、朝日の中の十紅子が、にっこりと笑って首を傾けた。  気にいらないな、と何度目とも知れない呟《つぶや》きを喉の奥で繰り返し、有王は左脇に抱えた銀の水盤が落ちないように抱え直した。  もっとも、最初から心弾む仕事にめぐりあったことはないし、充足感に浸れるほどの円満解決もあまりない。  そもそも有王は、呪禁師としての仕事など好きではないのだ。  しかし、『呪禁道』の継承者となってしまったのだろうから仕方がない。  だれも呪術になぞ見向きもしないよう、と心の奥底で祈るだけであった。  もちろん、無言の祈りなど、たいていの相手には通じるものではなく、副業のバーテンほどではないにしろ、呪禁師・有王の商売はほどほど繁盛しているといってよい状態を保っていた。  それともいうのも、数少ない知人や、かつて関わった人々が新しい客を紹介してくるせいである。  紹介状の真偽のほどはいざしらず、悲痛な顔で訪ねられては断ることも難しい。  逆に電話でほいほいと用件のみを話されることもあったが、断るタイミングの難しさは、手紙と同じくらいであった。  もっとも、どうせ断れない仕事なら、まだ手紙のほうが誠意があるように思えるのだが、どうだろう?  昨日、『辻』を訪れた大野上は、電話と紹介状のダブル攻撃で乗り込んできた。  しかし、この件に関しては紹介者本人に誠意がないことが明白だから、考えるまでもないことだった。  大野上が帰った後、燿を伴って店にやってきた匠は、有王の話を中途まで聞いて、『馬鹿だな』と言い放った。  その言い方があまりに強かったので、カウンター席に座っていた燿が、小さく苦笑したほどだ。  さらに今日は、大野上の、マンションを訪ねるために、呪具である銀の水盤を持ち出した有王を見て、とどめのように、『大馬鹿め!』と言い切った。  それから、せっせとひもを使って水盤を有王の背にくくり、『これで亀もびっくり』と言って花映と燿を笑わせた。  匠がそんなことする以前は、自分も水盤を背に背負っていこうと考えていたのだが、二人の笑いによってその考えを断念するに至った。  思慮深い燿と他人に無関心な花映がそろって笑い声をたてたということは、有王の格好が正視に耐え兼ねるほど滑稽だったということになる。  結局、有王は水盤を抱えて大野上のマンションに向かうことにした。  こんな大物を電車に持ち込む迷惑は身に染みて感じたが、他の方法を考えつかない。  どうにか最寄りの駅まで辿り着き、往来の人々の無関心になりきれない奇異なものを見る視線を感じながら足を運んで、ようやく指定された住所へと辿り着いた。  渋い青色のタイルで装飾されたマンションは、生活に溶け込みきれない芸術品としての姿を晒しながら、周囲の背の高いマンションの群れと競いあっている。  わずかに植え込みをつくって整えた玄関口に建てられた、半分ガラスを嵌め込んだ青い鉄の扉を開け、有王はマンションの内側に入っていった。  お決まりのオートロックが待ち受けていたが、白い籐の応接セットを配したロビーから、有王の姿を見付けた大野上がやってきて、インターホンを押すまでもなく扉を開けてくれた。  ロビーは不思議なほど広かった。  植物の鉢植えがまるでジャングルのように密集し、強化プラスチックの床の下には川らしき造形さえ見える。  半球体のすりガラスが天然とも人工とも知れない光をロビー全体に行きわたらせ、どこからともなく聞こえるせせらぎと鳥の声が逆に静けさを演出していた。 「お待ちしていました」 「ああ、どうも」  他に挨拶の仕様もなく、手を上げることも叶わなかったので、有王はいい加減な言葉を口にしてお茶を濁した。  大野上はこげ茶を基調にしたアーガイル模様のセーターを着ていて、スーツ姿より二つ、三つは若く感じられる。  前日は前髪をきちんと整えていたが、今日はセットした様子もない。 「私の部屋は最上階です。こちらにエレベーターがありますので、どうぞ」  ああ、と呟くように返事をし、有王は先に立って案内する大野上の後ろをのこのこと追いかけた。  脇に抱えた銀の水盤が限界に近いほど重く感じられていたが、あと数分でそれを下におけると思うと我慢することもできる。  エレベーターで最上階の十一階まで上がり、たった一つしかないドアを大野上が開けてくれるのを待つ。 「他に部屋はないんですか?」 「ワンフロア、一軒の造りなんですよ」  何を不思議がることがあるのか、と大野上の視線が尋ねている。  不思議はないが、贅沢という感想を、有王は嘆息に代えて外に放った。 「どうぞ、散らかっていますから、靴を履いたままで結構です。掃除をしていませんので、ガラスの破片などには気をつけてください」  おかしなことを、と有王は思ったが、開かれたドアから一歩踏み込むと、大野上の言葉が事実以外の何をも指していないことが理解できた。  一畳近い玄関には靴が散乱し、その向こうに広がるフローリングのダイニングキッチンには、背の高い黒い食器棚がガラス片をまといながら横たわっている。  鍋やフライパンが、情緒のない庭石のように床にころがっている。  食器棚の奥のテーブルは、綿を掻き出されて残骸にしか見えない椅子の上にのっかり、哀れな三本脚を天井へと向けていた。  細い針金を配した窓のサッシが割れ、大きなブラスチック片に似たかたまりがベランダで光っている。 「ここは、奇麗なほうですよ」  呆気にとられている有王の耳に自嘲ぎみにささやくと、大野上はその肩を押して奥の部屋へと足を進めた。  ダイニングキッチンからすると小さいと思えるほどの八畳ばかりの部屋には、テレビやオーディオが置かれていたが、それらは廃棄場にあるものよりも無残な状態で投げ出されていた。  割れた画面から引き出され、切断された配線。  スピーカーの震動板は割れ、粉にも近くなっている。  座ってくつろぐための椅子も何もないのは変だと思ったが、それはクローゼットの扉にめり込んでいただけで、ちゃんと存在していた。 「熊が暴れたみたいでしょう」  大野上の言葉は、自嘲を越えて投げやりになっていた。  しかし、熊とは明らかに違う、これは人間の破壊ぶりだ。  しかも、破壊を目的とした破壊でしかないように思われた。 「台所にもこの部屋にも、その、倉内さんの残した品物がないようですが……」 「彼女の? ああ、そうですね。この奥の寝室に、彼女の生けた花があります」 「……? 倉内さんは、この部屋で生活しておられた訳ではないんですか?」 「いえ、ここに居ましたよ。もうずっと、……半年近くになるかな」  大野上が目を細めて微笑した。  行方が知れなくなった恋人の顔を思い浮かべたように、そして、すぐに現実に気付いたように表情を曇らせる。 「彼女は、花を生けるのが好きだったんです」  奥の寝室にはいると、そこもめちゃくちゃに荒らされていた。  簡単には裂けないはずのウォーターベッドから大量の水があふれ出て、寄せ木造りの床を染みだらけにしている。  クローゼットから引き出された洋服が散乱し、床に叩きつけられた電話機は、断末魔に似た小さな点滅を繰り返していた。  こんな状態でも、大野上はコンセントを抜かなかったのだろうか。  多量の水に通電させたままで、感電死にも火事にも至らなかったことが不思議でしかたなかった。  しかし、それ以上に有王をいぶかしがらせたのは、床に散らばった衣服の中に、一点たりとも女物が存在しないことだった。  半分濡れて、すでにクリーニングしても落ちないような派手な染みを付けた服たちも、大半がモノトーンを基調とした男物のブランド品だ。  下着や靴下も男物ばかりで、タオルやシーツなどは男女の別は認められないが、それが衣服の代わりになるはずもない。  ———どういうことだ!?  有王は小さな眼鏡のレンズの奥で目を細め、無言で室内を凝視した。  大野上は、何が不思議なのか理解できない表情のまま、呪禁師が消えた恋人の行方を捜してくれるのを待っている。  ふいに有王は、自分が関わるべきではない事件に首を突っ込んだのではないか、という危機感を抱いた。  つまり、倉内十紅子という女性は、最初から現実には存在しないのではないかという考えだ。  彼女が、大野上の心にしか住まないマニアであるとしたら、旧知の占い師が手に負えない客を有王に押し付けてきた可能性は充分にある。  もう一つ、彼女が人間ではない可能性もある。  猫や絵画や人形といった、人以外で人が強く心を寄せる存在である場合。  ———それにしたってな。  姓があるのが、どうも合点がいかない。 「まあ、いいさ」  寝室の、辛うじてもののない床面に水盤を下ろすと、有王はコートを脱いで開きっぱなしのクローゼットのドアにかけた。 「水は出ますか?」 「ああ、キッチンのもバスのも出ますけど」 「バケツか何かあったら貸して下さい」  有王の頼みに、大野上はうろうろし始めた。  プラスチックの製品はあらかた原形を留めないほどに破壊されていたし、その目的も分からない大野上の狼狽ぶりは放っておいて、キッチンの床に転がっただけのやかんで水盤に水を張ることにした。  破損分以外は新品同様の粗大ゴミを避けながら、有王は働き蟻のように寝室とキッチンを往復した。  やかんが小さかったせいで、水盤の縁まで水を張るのに十数分もかかってしまった。 「花はどこです?」 「バスタブにつけてあります」  そっちに行こうとする大野上を手で制し、有王は自ら風呂場に足をむけた。  引きちぎられたシャワーのホースや破壊されたバス・グッズの中にあって、さすがにバスタブだけは原形に近い形を保っている。  不思議なほどに澄んだ水の中に、まだわずかな瑞々しさを残した十数本の赤い花が、不似合いなほど美しい彩りをもって浮かんでいた。  それは、どことなく現実離れした光景だった。  彼女の残した花を守ろうとした大野上の意図は、それを見た瞬間に有王には理解できないものになった。  恋人の残した花を水に浮かべる……。  それは、葬送の儀式に他ならない。  戦慄めいた想像と予感が、有王の背中をすごいスピードで走りぬけていった。 「どうかしましたか?」 「いいえ。……花を一本いただきます」  バスタブから濡れた一輪を掴み出し、有王は寝室へと戻った。  表面張力で今にも溢れ出しそうな水盤の上にその花びらを落とす。  赤い花びらは音もなく水に散り、澄んだ水面をわずかに揺らした。  有王は、掌に文字を空書して水面にかざす。  すると、風もないのに水面に浮かんだ花びらがくるくると回りはじめ、後ろで事の成り行きを見守っていた大野上の口から感嘆の吐息を引き出した。  花びらが回る。  銀の水盤の中でくるくると回る。  水盤の四方には方位が刻まれていて、そのひとつひとつが現実の方位に正しく合致するように置かれている。  有王のやり方が間違っていなければ、花びらはいずれかの方向に集まり、愛情を持って自分を生けた女のいる方角を明らかにするはずであった。  しかし、……。  くるくると水盤の中を回っていた花びらは、一つ、また一つと水中に没していく。  細かい泡をまとい、浮力に逆らって沈んでいく花は、無言の悲鳴をあげるはかない存在そのものだった。 「……言いたくはないんですが、大野上さん」 「十紅子は生きている」  言葉を濁す有王とは対照的に、断固とした口調で大野上が言った。 「十紅子が死ぬはずがない。彼女が死んだのなら、私にはすぐわかるはずなんだ」 「分かるはず、か。なるほど、それほど自信があるなら、もう二、三日待ってくれませんか? やり方を改めて、もう一度彼女の行方を探ってみることにします」 「それは、……そうだな。待つことにしましょう。何か分かったら、名刺の裏にホテルの電話番号を書いておきましたから、そちらに連絡してくださったらいい」 「分かりました」  確かにホテルの名前と電話番号が記されていたことを思い出し、有王は大きくうなずいた。  この部屋は、とてもではないが、人間が暮らすのに適しているとは言えない。 「それじゃあ、水盤の水を捨てますから……」 「わざわざ動かさなくても結構」  感情のない声で言うが早いか、大野上は銀盤の縁に足をかけた。  軽く一蹴りしただけで、派手な音がして水が流れだし、赤い花びらが床を滑っていった。 「どうせ、この部屋は無茶苦茶なんだ」  階下に水が洩れるのではないか、と有王は思ったが、大野上が何も言わぬところに口をはさむほどの義理もない。  呪具を足蹴にされたことだけ腹立たしかったが、この水盤は中古品で、しかも、かつて匠がフルーツポンチを入れて客に供したといういわくつきの代物でもあった。  有王の世界には厳然たる呪具は存在せず、道具の全ては生活と密接につながっている。  それが有王自身の性格に根差すものなのか、それとも呪禁道の発展と変化の中で加わったものなのか断じ兼ねたが、それを断じる必要も特には感じられなかった。  ———そういえば、太刀があったな。  若宮神社の本殿に納められた黒い太刀が頭に浮かぶ。  あれだけが、純然とした、有王だけのたった一つの呪具であるように思われた。   大野上のマンションを出た有王は、その足で新宿に向かった。  とはいっても、位置的には帰宅途中である。  他の駅と比べて格段に旅客数の多い構内を抜け、銀の水盤にひどく迷惑そうな視線を向けられながら、有王はひたすら先に急いだ。  すれ違う人々の視線の中には、長身で長髪の若い男性に対する純粋な好奇や好意も含まれていたが、自分の格好は変だと思い込んでいる有王に理解できるはずがない。  それよりも魅伽に会う。  とにかく魅伽に会って事情を質《ただ》さなくてはならない。  そうでなくては、こんなトンデモナイ事態を押し付けられたまま納得することはできはしない。  魅伽を誰に紹介されたのか、と大野上に尋ねた時、彼は、『有名な方ですから』と曖昧な答えを返した。  確かに商売熱心で口八丁手八丁の魅伽の顧客網は、零細呪術師の有王なぞには、とても想像が及ばないものだ。  しかし、手にあまるからといって、一旦引き受けた仕事を押し付けられるのは我慢できない。  はい、そうですか、と女王さまの命令を拝受できるほど、有王は人間的に平な精神の持ち主にはなれなかった。  威圧的にそびえる都庁やデパートの群れを後目に大小様々な建物がひしめきあう住宅地に足を向ける。  新しい大きな建物ばかりが目立つ若者の街にも、昔ながらの居住者がいて、年数に不安を覚えるような雑居ビルも建っている。 『津島ビルヂング』  味のある文字を刻んだ灰色の礎《いしずえ》が、有王の目指す場所であることを告げる。  その深緑色のタイルのビルは、樹木の陰にははこびる苔のようにひっそりと建っていた。  窓は鉄枠のサッシでその鉄が錆びて流れだした赤茶色の鉄分が、まるで涙か傷口から流れる血のようにビルに全体を覆っている。  わずか四階建てのビルは周辺の住宅に比べても貧相に見え、整然と並ぶ銀色の郵便受けが、却《かえ》って突き放したような印象を訪れる者に感じさせる。  もっとも、ここは特別な場所ではない。  ありふれた老朽化したビルにすぎず、中野にある有王の事務所もこんなものだ。  入り口が脇にあるのは、仕事場と住居を一緒にしている者が多いのに管理人もインターホンもないビルの、せめて防犯意識の表れのようだった。  細い階段は人二人が擦れ違うのがやっとといった代物だったので、有王は少しだけ迷って水盤を郵便受けの下に置いた。  滅多に使うことはないが、もう十数年もこのビルを訪れた者がいないのではないかと疑わせるほど積もっていたし、それぞれのボックスに差し込まれた新聞やダイレクトメールは、受け口からあふれて床にこぼれていた。  こんな有様では、のこのこやってくる泥棒もいないだろう。  結局、水盤はそこに残したまま、有王は軽いステップで階段を上がり始めた。  何故か下二段だけがコンクリートを打ちっぱなしにした階段で、あとはリノリウムタイルの床が続く。  すべりどめのゴムが半分剥がれていて、雨の日は滑りこける者は続出ではないかと有王を心配させた。  廊下まであふれ出たマネキンや段ボールの群れを横目に、冬とは思えないほどの埃と湿気の匂いをかぎながら、有王は最上階の四階まで一気にかけ上がった。 『逢坂探偵事務所』『村山プロダクション』と、それぞれにあやしい看板をかかげた部屋の前を通り、細くて薄暗い廊下の突き当たりに目指す占い師の居城を見つける。 『占い・魅伽』  鉄のドアの上部に設けられたすりガラスの部分に金文字で横書きした黒い板が貼りつけられている。  廊下は暗いが、ちょうどドアの左手の部分に消防用の赤いランプが点っていて、それが文字をきらきらと光らせていた。  確か呼び鈴はなかったはずだと思い、ドアをノックしようとした時、看板の下にガーグールという西洋の魔物を象《かたど》ったノッカーがあることに気がついた。  獣と人間を一つ姿で表したようなそれは、不気味ながら一種の愛嬌をもって客に微笑んでいた。 「あのはったりやろう……」  呟きながらノッカーを鳴らすが、ドアは一向に開く気配がない。  しびれをきらしてノブをまわすと、ドアは驚くほど軽く開き、あっさりと有王を内へと招き入れたのだった。  室内は廊下の比ではないほど暗かった。  ほのかに蝋燭と香の匂いがしたが、今は火の気配は感じられない。  目が慣れるまでのわずかな時間を経て、ようやく有王は、丸いテーブルに掛けた人間の影を認識するに至った。 「おい! 魅伽!」 「いらっしゃいませ」  有王の怒声に対し、なめらかなボーイソプラノが応えた。  ぎくりとする間があればこそ、人影は音もなく立ちあがり、滑るような足取りで有王の側に立つ。 「こんにちは、呪禁師のお兄さん」  闇の中で、少年がにっこりと微笑んだ。  さらりとした癖のない髪は漆黒。  ほのかに輪郭が浮かぶ白い顔の中で、大きな黒い瞳が水に似た輝きを放っている。  年は十三、四歳と言うところか。  崇よりも多少小柄で、もの馴れた振るまいは別としても、まだ幼さを残す容姿である。 「ボク由多《ゆた》といいます。魅伽さんの助手をしているんだけど、彼女は今いませんよ」 「だろうな」  ちらりと視線を動かし、部屋の隅の空っぽの鳥籠を確かめて有王は言った。  魅伽はジャックという赤いコンゴウインコを飼っていて、どこへ行く時も必ず肩に乗せていく。  営業用の『イラッシャイマセ』はジャックの仕事だったし、ジャックの不在はそのまま魅伽の不在を表していた。 「ホントは、魅伽さん、あなたのことをずっと待っていたんだけど……」  少年が、そっと有王の手に触れた。  階段をかけあがったとはいえ、外気の冷たさを肌に残していた有王だが、室内にいたはずの少年の指の冷たさはそれ以上だった。  驚いて手を引くと、その様子がおかしくてたまらないといった風に、少年はくすくすと笑う。  有王は、氷の塊を押しつけられたように手が痛かった。 「魅伽さんね、待ち切れないって、出掛けてしまいました」  少年はテーブルの上に置かれた白い封筒を指さした。 「伝言です」  手を出すまでに一呼吸置くが、飾り気のない封筒は確かに魅伽の愛用の品だった。  用心深く手にとったそれをコートのポケットに納め、有王はもう一度ゆっくりと室内を見回した。  ルーン文字を刻んだ石も、十二支を描いた紙の脇に、ちゃんと秩序よく並べられていた。  物の並びは整然としていても、取り合わせは無茶苦茶である。  西洋も東洋も、何もかもが混沌としていて、占われる側を酔わせる雰囲気だけが充満している。  これで当たらなければただの詐欺だが、当たるのだから笑えない。  有王は、二十数年来の短い呪術者生活の中で、まだ魅伽ほどよく『当たる』占者《せんじゃ》に会ったことがない。  性格も相当なものだが、その能力は驚嘆に値するほど強くて高い。  だからこそ、逆にこうした舞台装置がうさんくさく見えるのだが、魅伽の客にとっては、目に見えない魅伽の能力よりも霊験あらたかに感じられるのだろう。  魅伽本人に言わせれば『演出』というところだろうか。 「魅伽がいないんなら帰るしかないんだが、……あんたはいつから助手になったんだ?」  有王の問いに、うふふ……、と少年が笑いをもらした。  微笑がわずかに鋭さを帯び、声色も先程とは違う響きを持っている。 「ホントはね、ボク、あなたに会いたくてここに来たんだ。だから、魅伽さんとは入れ違いになっちゃった」 「だろうな」 「どうして分かるの? 魅伽さんってヒトは、他人に手伝わせないタイプじゃないでしょう?」 「ああ、……寝ている他人を足蹴にして起こしてでも使うタイプだよ」  説明するまでもない、と有王は言葉に吐息を織り込んだ。 「じゃあ、どうして?」 「おまえが、手紙に触らなかったからだ」  きっぱりした声で有王が言うと、少年の微笑は完全に怖いものになった。  手紙に残された簡単な呪力により、宛名以外の人間が封筒に触れると、怪我には至らないまでもとんでもなく痛い目にあうように細工されている。  昔、水盤での占いを教わった有王が、報酬がわりに魅伽に教えた方法だった。 「なるほどねえ」  すうっ、と少年の体が引力から解放されたかのように有王の頭上をとびこえた。  まだ一メートル近い余裕があるとはいえ、天井の高さを考えれば驚くべき動きである。 「菊名翁《きくなおう》が、あなたを気にいっちゃった理由が分かったよ。ホントに面白い」 「おまえ『綾瀬《あやせ》』か!?」  少年の動きにあわせて振り返ろうとした有王は、左腕が何かに絡めとられたように動かないのを自覚した。  しかも、どうして動かないのかが分からない。 「ボクね、花映や燿には興味ないんだ」  歌うような口調で少年が告げる。 『綾瀬』とは、獣人である花映を生み出し、『カナリア』である燿を生み出し、彼らがその束縛を嫌って逃げ出すまで、彼らを『保有』していた組織であった。  昨年末、花映たちを保護した有王は、『綾瀬』の菊名翁と名乗る陰陽師《おんみょうじ》と呪術の腕前を叩き合わせている。  しかし、実際に『綾瀬』がどのような組織なのか、どのような人物で構成されている集団なのか、有王はもちろんのこと、そこを逃れてきたはずの花映にすら、正しくは理解されていないのだった。  分かっているのは、『綾瀬』が『カナリア』である燿を取り戻したがっていること、それだけだ。 『カナリア』は、言葉を発するだけで、全てを意のままにするという。 「カナリアに興味がない、というのは、どういうことだ?」  指先をこまかく動かして、自分の手首に絡みついた糸状のものを確認する。  緊張のため、首筋を生暖かい汗がつたった。  それだけのことで有王は、暖房もない室内の温度が、五度近くも上昇したかのように感じている。 「そいつは、『綾瀬』らしくないんじゃないか?」 「どうしてさ?」  勝ち誇ったように少年が有王を見る。  有王をその場につなぎとめているのは、さきほど少年が触れた時に仕掛けた糸に間違いないようだった。 「ボクは、華陽妃《かようひ》・祥娥《しょうが》の息子・由多だもん。花映や耀よりも、ほんの少しばかり地位が高いのさ」 「訳がわからねえよ」  鎖につながれた獣のように、有王は低い声で唸ってやった。  相手がそれを望んでいることが理解できたし、望む状況を呈示してやることは時間稼ぎにもなる。 「ボクは、あいつらと従兄弟になるんだ。だけど、真実夜《まみや》や多可羅《たから》は無冠だもの」 「タカラ?」 「花映たちの母親の名前だよ。あなた、本当に何も知らないんだね。どうして、花映や耀を守ってやるのさ」 「さあな」 「カナリアの力を利用して、世界を支配したいんだって言ってくれれば面白いのに」 「世界を支配して何が面白いんだ?」  今度は本気で有王は言った。  少年が、形の良い眉を歪める。 「あなた、ものすごく頭がいいか、救いようのない馬鹿か、どっちかなんだね」  するっ、と少年の体が鉄のドアを擦り抜けた。  口もとを奇妙な笑いの形にゆがめ、消え去る直前に彼は有王に手を振ってみせた。 「ボク、退屈なんだ。遊んでくれるよね?」  どん! どん! と何かに強く押されたような衝撃が、背中から有王に襲いかかった。  背後で何かが炸裂したのだと認識するよりも速く、自分を縛る糸を切断しにかかる。  火薬の匂いが狭い室内に充満し、コマ落としのフィルムのように順序よく爆発が繰り返された。  この時間は、有王を苦しめるために設定された時間なのだ。 「ちっ!」  有王は、開いている右手で靴底に隠したナイフを抜き取り、渾身《こんしん》の『力』をこめて呪縛の糸を断ち切ろうとした。  鈍い音がして刃がこぼれ、刀身が折れる。  折れたナイフになおも渾身の力をこめて、有王は呼吸と精神力の全てを糸に集中させた。  糸が切れるのと、恐ろしく威力のある爆発がまわり中を巻き込むのは、ほとんど同時だった。  おそらく鍵がかかっているのであろうドアに向かうことはあきらめ、有王は壁に掛けられた黒いビロードの覆いを引き千切り、足で窓を蹴りやぶった。  四階から窓から飛ぶことを、有王は一瞬もためらわなかった。  落ちても死ぬかどうかはわからないが、室内にいれば、間違いなくばらばらにされてしまうという感覚が、強く全身を支配していた。  爆風に押されながら宙を舞い、有王は、ビルの壁面を構成するタイルやコンクリートのかけらと共に、隣のビルの壁面に叩き付けられた。  ひどい衝撃が肩に走ったが、わずかに落下した後、どうにか開いていた窓の枠に手をかける。  ところが、爆発のショックのせいか、もともと痛んでいたのか、有王の体をしばらくは支えたくせに、窓がいきなり枠ごと外れて下に落ちた。  四階から直接落下するよりも数段はマシだったが、それでも、しばらくは立ち上がれないほどの激痛を感じ、有王は地面に散らばった瓦礫の上にへたりこんでいた。 「それじゃあ、これPHSですけど。こっちが私の携帯番号で、この財布に、とりあえず五万円ほど入ってますから、一緒に入れときますね」  田原坂が茶色い二つ折りの革の財布に、電話番号を記した紙片を差し込んだ。 「それから、ここに私の名刺が入ってます。事務所の名前と電話番号が書いてあります。裏にはこの部屋の番号も書いておきましたから、携帯につながらない時は、こっちに連絡して下さい。留守電にしてあります」 「うん」 「それから、この部屋の鍵です」  田原坂の差し出した鍵には、丸い革のキ−ホルダーがついていた。  そこには、目つきの鋭い猫の模様が型押しされている。 「おおっ、こいつは……!」 「ご存じなんですか?」  わずかながら尊敬をもって、田原坂が崇に尋ねた。 「うん、なんとかいう猫だろ? こいつ、隆文《たかふみ》の彼女が好きなんだ」 「そうですか。……お願いする身で申し訳ないんですが、鍵は失くしてもキーホルダーは失くさないようにお願いしますね」 「なに? 田原坂さんも彼女にもらったの?」  にやにやと笑いながら崇は問う。  とんでもない、と言わんばかりに大きく頭を振り、田原坂が声のトーンを落として説明した。 「妹がもってくるんですよ」 「ふうん。妹にもらったんだ?」 「いえいえ。もらったんじゃありません。ここに置いてあるだけなんです」 「……? なに、それ?」 「私にも、よく分かりませんが、妹がもってきて置いていくんですよ。失くしたら、ひどく怒られますから、それだけはよろしくお願いしますね」 「……うん」  まだ何か問いたそうにしたものの、崇はそれ以上はつっこまなかった。  田原坂からうけとった財布の中身と紙片や名刺を確かめ、それを鍵と一緒にジーンズの後ろポケットに押し込む。 「食事や移動は、全部この財布から出してくださいね。足りないようなら、部屋に戻ってこのカードを使って下さい。くれぐれも倉内さんから目を離さないように」 「うん、わかった」  大きくうなずきながら、崇は、ふと不安そうな顔で田原坂を見た。 「ほんとに、大丈夫かなあ……?」 「どうにかなりますって」  崇を励ますように田原坂が笑い、それじゃあ、行ってきますと言って、玄関から出ていった。  本当は、すぐにでも有王に連絡をとり、この怪異の真相を明らかにして欲しいのだが、相手は夜の仕事を抱えている。  早朝から『辻』にいる可能性は薄かったし、第一、崇も田原坂も、社務所にひかれているはずの電話の番号までは知らなかった。  しかし、夕方まで待てば、ほぼ確実に『辻』で開店の準備をしている有王をつかまえることができる。  それまでの間くらいなら、崇が十紅子を見ていることも、それほど困難ではないはずだった。  だが、田原坂と別れて、十紅子と共に外に出てすぐ、崇は猛烈な後悔に襲われた。  十紅子がウロウロと歩き回るからではない。  ただ、ぼんやりと公園のベンチに座ったきりになってしまったからだ。  もともと、崇はすばしこさで仲間内に認められてきた。  裏をかえせば、一時もじっとしていられない落ち着きのない子供ということになる。  崇自身、一カ所にじっとしていることは苦痛を伴う性分だ。  だから、十紅子がペンキの剥げかけた白いベンチに落ち着いてしまうと、すっかり閉口して、ベンチの側のシーソーにまたがってみたり、正体のよく分からないオブジェを触ってみたりして退屈を紛らわさなくてはならなかった。 「なあ、どっか行くんじゃないの?」  小さな遊具にぶら下がりながら崇が尋ねると、十紅子はにっこりと笑う。  笑うけれども、何も答えない。  それ以外には、何もできないという風に。  よっ、と掛け声をかけて後方に一回転し、崇は冷たい地面にあぐらをかいて十紅子を見上げた。 「あんた、どっから来たんだっけ?……どこに行きたいのかも、わかんないんだよなあ。そこが、遠い近いかもわかんない?」  ジーパンが汚れるのもかまわず、崇は両足首をおさえてくるくると体を回転させた。  軸にしたお尻は痛いが、冷たさで半分感覚が失われているから構わない。  それよりも、どうやって田原坂が彼女の名前を構成する漢字を聞き出したのか、不思議でしかたなかった。 「とおいか、ちかいか……?」  ふいに、十紅子の唇から言葉がもれた。  それは、喋ったという感覚を伴わない、どこか遠くから聞こえてくる別の人間の声のようだった。  滑らかだが、幻聴に似て頼り無い。  しかし、崇はそれでも安堵せずにはいられなかった。 「あのさ、田原坂さんの部屋に戻って、地図とか見て考えたほうがいいんじゃない? それとも、捜さなくてもいいくらいなら、いっそ、田原坂さんの部屋に住み着いちまうとかね」  無責任なことを言って笑うと、十紅子もよりはっきりとした笑みを浮かべた。  けれども、先程の一言が嘘だったかのように、十紅子はひたすら微笑んでいるだけだ。  視線ははっきりと崇を捕らえているのに、心は決してそこにはない。  十紅子が無言なので、崇も黙った。  両足を掴んだまま俯き、細かい砂利の混ざった土を見る。  白っぽい公園の土は人工的で、まるで白い骨や宝石を混ぜ込んで作った砂浜のようだった。 「ねえ、十紅子さん。あんた、……カナリアじゃないよな?」  否定も肯定もなく、十紅子は本物の金糸雀《カナリア》のように小首をかしげる。  そういえば、楽しい声で鳴くのはオスの金糸雀だけだと、いつか洋子が教えてくれた。 「そんなわけねーか。カナリアってのは特別だって、有王や花映さんも言ってたもんな」  特別、という言葉が、正確には何を指すのか分からない。  崇が分かっているのは、ただ耀が常人と違う力をもち、その力ゆえに苦しんでいることだ。 「カナリアってのはさ。何でも言ったことが全部、ほんとになっちまうヒトのことなんだってさ。便利だって思うかい?」  十紅子が目をふせた。  崇は彼女が泣くのではないかと思ったが、ビー玉のように濡れた輝きを湛《たた》えた彼女の瞳の表面は乾いていて、ただ、そんな気配を感じさせただけにすぎなかった。 「辛いんだよな、やっぱり。……でもさ、オレが思うのは、……父さんがいなくなって、母さんが苦労しててさ。もっと金のもうかる仕事につけないかな、とか、別に、寝てても金が入ってくる身分になりたいってんじゃなくてさ」  どこかで聞いた言葉だ、と思ったら、それは有王が崇にいった言葉だった。  寝てても金が儲かるに越したことがないが、そういう状態につきまとうリスクを、崇は以前に身をもって経験している。 「近所のおばさんが、……母さんのこと心配してる振りして悪口言ってんのをこらしめてやりたいとかさ。がっこの勉強が、……も、ちっとだけ分かるいいな、とか」  十紅子は黙って聞いている。  喋りながら、崇はだんだん自分が惨めになってきた。  十紅子は黙って崇を見ているし、これでは、寂しい子供が熱心に人形に語りかけるのを大差ない。  愚痴をこぼすなんて、崇の趣味でもなかった。  だが、あらゆるものの回転に慣性があるように、崇の台詞もすぐには胸におさまりきらなかった。  学校の友人の大半が、崇とは違った……進学や成績の悩みを抱えているせいかもしれない。 「姉ちゃんもさ。……あいつが、たった一言、目が見るようになるって言ってくれるだけで、いろんなものが見えるようになるのになって。オレ、そんなことばっか考えてる」  がりっ、と地面をひっかくと、爪の間に小石が入る。 「友達なんだ。オレ、耀っていうカナリアと友達なんだ。なのに、そんなことばっか考える。あいつのこと、利用するようなことばっかし頭に浮かぶんだ。……あいつが辛いの知ってんのに、オレ……」  うーっ、と崇は喉を鳴らした。  歯を強く噛みあわせて地面を見る。  目頭が熱く、注意していなければ涙が流れそうな気がした。  ふいに崇の頭に何かがのった。  ふわりとやわらかい動きのそれが、十紅子の左手だと気付くまでに、崇は二、三秒も茫然としていたらしい。  十紅子の指は冷たかった。  髪の毛を通してでも、ぞくりと背中に悪寒が走るほど冷たい。  けれども、指の冷たさよりも、心にとどく温かさのほうが、その時の崇には数倍も強く感じられた。  そして、自分が洋子の目の具合を嘆くふりをして、自分の問題を姉の問題に擦り替えていたことに気付く。  崇は、本当は学校に行くことも、バイトすることも嫌だったのだ。  それは、その先に自分が何を求めてるのかが見えないせいだ。 「やさしい、こ……」  オウムのような声で十紅子が言った。  それは、壊れかけた人形の口からもれた、懸命な言葉のようだった。  十紅子は耀に似ている。  周りの全てを許し、自分を抹殺することで世界を守ろうとした少年に。  それは、しかし、正しいことではないのではないか、と崇は思う。  全てを守るなら、その中には自分も含まれているべきだ。  耀には、それがなかった。  そして、今、十紅子からも、『世界』の外に自分を置き、ただ何かが流れすぎていくのを持っているような気配が感じられた。  ……まるで、人間ならざる傍観者のように。 「……十紅子さんは、どこに行きたいんだよ?」  十紅子は小さく首を傾げる。  瞳は遠く空の彼方をみつめ、物言わぬ唇を小さく動かした。  か・え・り・た・い……。 「どこに帰りたいんだよ? 自分の家か? だったら、それがどこなのか、ちゃんと教えてくれよ。思い出す努力をしてくれよ! そしたら、オレがそこまで連れてってやるから」 「教えてあげようか?」  崇の後ろから、澄んだ少年の声が響いた。  驚いて立ち上がり、振り向いた崇の目に、水色の染めたヌバックのロングコートを羽織った少年が映る。  漆黒の髪がほどよい長さで白い首にかかり、大きな闇色の瞳が二人を見つめている。  少年は、両手のコートのポケットに入れていた。 「その女性は喋れないんだよ。命じられたことしか喋れない。だから、努力なんて言葉は、彼女には何の意味ももたないんだ」  食べる?  とポケットから銀の紙に包まれたチョコレートを取り出し、少年は崇に差し出した。  崇は受けとることができなかったが、少年はそれを予期していたように再びポケットにしまい直した。 「君はさ、待つことができないんだね」 「……待つ?」 「そうだよ。不幸そうなふりをして、結局は、それが欲しくて仕様がなくなるまでは待ったことがないんだ。甘やかされてる」 「なんだと……!!」 「だから、彼女に『思い出す努力をしろ』なんて、無理な要求が平気でできるんだよ」 「この……っ!」  何も知らないくせに! と心の中で叫びながら、崇は少年に向かって左手を突き出した。  右利きだったが、利き腕は相手を殴るのに使うから、自然と捕まえるためには左手を使ってしまう。  しかし、少年はポケットに手を入れたまま軽くバックステップして、一呼吸もつかぬ間に崇の側から離れてしまった。 「ボク、その女性が誰だか知ってるよ」  薄く微笑み、楽しそうな口調で少年が言った。 「君が知りたいんなら、教えてあげる。でもさ、知りたいんなら、君もドリョクをするべきだよね」  どこかおかしかった。  音もなく崇たちに近寄り、ためらいもなく声をかけてきた少年は、おそらくは花映や耀に関係する人間なのではないか?  きっと、有王のような『呪禁者』に違いない、と崇は警戒心を強くした。 「コンニチハだよね。高田崇くん。そうだ、最初は初対面の挨拶だ。君、耀の友達なんだってねぇ」  少しだけ辺りをセピアに染めて、濃くなっていく影が夜の訪れを告げている。  崇の目には、自分よりもいくぶんか小柄なはずの少年の体が、公園中の空気を支配する巨大な存在に思われて仕方なかった。  わずかな恐怖と困惑をねじふせようと、崇は無意識にまばたきを繰り返す。  その様子を嘲笑いながら、少年はからかいを含んだ声で続けた。 「でも、そんなコト考えてんのは、きっと君だけだよ。耀は冷たいからさ。君は、耀をあの妙ちきりんな神さまや、護衛役の呪禁師に引き合わせるための道具にされたんだ」 「違う!」 「違わないよ。……違うって思いたいのは分かるけどねえ」 「……おまえ、なにもんだよ!?」 「ボクは由多。耀と花映の従兄弟なんだ」 「イトコ……?」 「そう、従兄弟だよ。あんな化け物たちとちょっぴりでもおんなじ血が流れてるんだ。気持ち悪いったらないね」  少年———由多は肩をすくめた。 「だからさ、ボクとしては、耀たちが死んじゃってくれればいいなって思うんだ」 「なんだと! この野郎!」  かっとなった崇は、両腕を伸ばして、再び由多の襟首を掴もうとした。  しかし、胸の前までもちあげたところで、腕がぴくりとも動かなくなる。  まるで石になったように、崇はその場に固定されたまま、ぎらぎらと光る双眸《そうぼう》だけで由多を睨み続けていた。 「汚い手でさわらないでよね、崇クン」 「この……ヤロ……」 「ボクにも呪禁があったら、永久に喋ることを禁じてあげるのに」  くすくすと笑いながら由多は崇の脇をすりぬけ、ベンチに座っている十紅子に近付いた。 「喋れなくなったら、君も、彼女や耀とおそろいになるねえ」  由多が、十紅子の耳元に口をよせた。 「〜〜〜に行きなさい」  崇には、由多の言葉は半分しか聞こえなかった。  しかし、十紅子は真顔になり、そして、ひどく悲しそうな表情になり、うなずいた。  他にとるべき方法がないといった様子で。 「十紅子さん!」  ぎしっ、と体が軋んだ。  その時、初めて崇は、自分の両手首に細い糸のようなものが絡みついていることを知った。  その糸は頑丈で、多少の動きでは切れそうもない。 「手首が落ちるよ」  嬉しそうに由多が言う。  十紅子が不自然な動きで立ちあがり、糸に絡めとられた崇のことなど眼中にない様子で歩き始める。 「十紅子さん!」 「まあ、いいか。一緒に行かせてあげるよ」  由多が嘆息した。  それと同時に、崇の両の手首は血をしぶく。  鈍い痛みと共に突然自由になった手首をさすりながら、崇は由多を睨み続けた。 「一緒に行って、その目で見るといいよ。他人を信じることは無意味だし、何かを求めることも無意味だってことをね」 「一人で言ってろ! ちくしょうめ!」  捨て台詞にしてはちんけだったが、崇はもう由多に構うつもりはなかった。  ただ、十紅子を追わなくてはならないという気持ちだけが頭を支配する。 「待ってよ、十紅子さん!」  もはや振り返ることもなかった崇は、幸いにも、背後の由多が浮かべた恐ろしく邪悪な笑みを見ることはなかった。  冬の寒気にさらされた紅《くれない》の太陽は、わずかにそれに残る雲を染め、ゆっくりと西の空を燃やし始めていた。  風雨で傷み、今にもつぶれそうに軋んでいるベンチに、有王はやっとの思いで腰かけた。  一挙手一投足ごとに関節がぎしぎしと音をたて、人間の肉体の構成物の存在を知らしめる。  というよりも重いという感覚から、ベンチにそっくり返った瞬間に、ようやく解放された気分になった。  爆発があったビルの近くの公園には、幸いにも人の姿はない。  しかし、まだ薄い黒煙をはいているビルの周囲にはパトカーや消防車がとまっていて、うかつに水盤を回収に行くこともできない。  コートはボロボロ、髪の先はちりちりという格好の有王は、誰が見ても爆発の現場にいた当事者に違いないと思うだろう。  息をつき、もう一度激痛を味わってから、有王は無意識にコートのポケットに手をつっこみ、かさり、と指に当たる紙の感触に気がついた。  魅伽の部屋にあった手紙だ。  痛みのためと銀の水盤のために、もうしばらくベンチに座っていなければならないとふんだ有王は、ポケットから取り出した手紙の封を切った。  広げると、白いシンプルな便箋に魅伽の達筆な文字が並んでいた。 『やっほー。  元気してる?  絶対にあんたが怒って怒鳴り込んでくるのが分かってるから、あたしはちょっと旅に出ます。  捜さないでね、ダーリン。  だけど、きっと倉内十紅子のことを、捜し出してくれると信じてるわ。だって、あんたは日本で一番人の良い呪禁師だもんね。  それに比べて、あたしはただの占い師だし、どうしたらいいのかわかんないのよね。  倉内十紅子捜しを依頼してきた大野上っていう男前のお兄さん、紹介はかかりつけの歯医者の奥さんなんだけど、なーんか変だったのよ。しかも、こんな合点のいかない依頼でしょ?  あたしが分かるのは、倉内十紅子という女性が、すでに亡くなっていることと、なにかがゴソゴソ動いてることだけ。  彼女は、昨年の八月七日に亡くなっているはずなんだけど、カードで見ても、水晶玉で見ても、何を見たって星が移動してるのよねー。  これはもう、あんたの仕事以外の何ものでもないなって思ったわけだから、うまく事がおさまったあかつきには、報酬は山わけということでヨロシクね。  ばいびー。         あなたのハニー・魅伽』  ぐしゃっ! と勢いよく手紙を握りつぶし、有王は深々と頭を垂れた。  せっかく新宿まできたのに、埃と怪我とかぎざき以外には、収穫らしきものがほとんどない。 「あのやろう〜っ!!」  誰がハニーで誰がダーリンだというのだ。  学生時分から魅伽のおかげで辛酸を舐めたことは数知れないが、今回は十指に入るほどの酷さだと思う。  おまけに、『綾瀬』を名乗る変な子供まで首をつっこんできて、事態が一筋縄ではいかないことがはっきりと示されてしまった。  しかし。 「『綾瀬』……か」  有王は汚れた手で前髪を掻きあげ、灰色に雲って空を見上げて息をついた。  魅伽の暴挙は許せない。  しかし、あのビルの一室には、彼女の財産のほとんどが残されていたはずだ。  占いの道具もしかり、あの仰々しい黒い幕の向こうに隠された住居部分の家具類しかり、たしか、データを処理するために使っていた高価なパソコンもあったはずなのだ。  昔から美貌と守銭奴ぶりで名を売っていた魅伽が、おめおめとそれらを置いて出奔するのは合点がいかない。  しかし、逆に考えれば、それらを見捨ててでも即日姿を消さなくてはならないほどの危険を察知したという可能性もある。  占者は、自分の運勢を占わない。  これは、有王のように他人を呪わないといった自主的な意識をもっているのと違い、いわば占者が守るべき鉄の掟である。  そんな理由から、魅伽は寿命が長く、頭の良いコンゴウインコを飼っていた。  生活全般をそのインコと同調させることで、インコの危険を自分の危険と判断するためである。  中世であれば使い魔でも手に入れたかもしれないが、現代の占者はコンゴウインコを飼育しているのであった。 「『綾瀬』は確かに危険だろうな。どっちにしても、関わらないに越したことはないか」  裂けたコートのポケットに再び手に入れ、煙草はないのだと思い出して苦笑した。  昨年末、『綾瀬』の菊名翁とやりあった後の一服が、長い禁煙生活をわずか数秒で無効にしてしまったらしい。 『華陽妃《かようひ》・祥娥《しょうが》の息子・由多』 『真実夜《まみや》と多可羅《たから》』  少年の口にした四人の名前を胸の内で繰り返し、有王は再び息をついた。  知っている名は一つだけ。  いや、由多というのは少年が告げた自分の名だから、とりあえずは二人、知っていることになるだろう。  真実夜は、花映と耀が『綾瀬』から逃げ出す手伝いをした二人の伯母である。  自らの内に巣くう闇を恐れながら、結局はその闇に身を浸すことを選んだ女だ。  彼女を、そして花映と耀を連れ戻すために差し向けられた菊名翁という陰陽師は、己の『綾瀬』での立身出世を願って猛烈に攻撃を仕掛けてきた。  彼らの考えには同意はできないが、理解できないことはない。  社会の構造を綾瀬という組織に凝縮して考えても、全く異質というものではありえない。  しかし、由多という少年は退屈だといった。  有王に遊ぼうと言ったのだ。  そのためだけに魅伽の住居を爆破したのなら、それこそ有王の理解の範囲を超える思考であり所業であった。     3 スプレッド(SPREAD)  全身傷だらけで服もボロボロにした有王が『辻』に帰りついたのは三時を少し回ってからのことだった。  何とか取り戻した銀の水盤を背中に背負い、まさに亀もびっくりの格好でドアを開けると、店の床には数種類の雑誌が無秩序に投げ出されている。  カウンター内の流しには鳥の骨が幾本も積まれ、匠と燿の姿はなかったが、花映がカウンターにつっぷしてふかふかと惰眠を貪っていた。 「おい、花映」 「う……ん。何、有王? すごい匂いだ。煙くさいし、死体臭い……」  呼ばれて嫌々目を開けながら、花映はとんでもないことを口ばしった。 「死体臭い?」 「うん、すごい匂いだ。あの人のトコに行ったんだろう? 昨日、ここに来た人」 「行ったには行ったが、……何で分かる?」 「昨日と同じ匂い……。すごく時間のたった死体の匂いだ。嫌な匂い」 「死体の匂いが……するのか」  有王の呟きを無視し、ふいに花映は弾かれたように身を起こした。  さっきまで半眼だった瞳はらんらんと輝き、唇の端からは白い牙をのぞかせている。 「『綾瀬』の匂い!!」 「ああ『綾瀬』の奴にも会ったよ。あやうく入院させられるところだった」  床に散らばった雑誌を拾い集めて作りつけの棚にしまうと、有王はカウンターに入った。  すでに廃棄処分するしか道がないコートを壁にかけ、エプロンをつける。  後ろ髪を外に出す時、先が縮れているのが気になったが、それは後で燿にでも頼んで切り揃えてもらえばいい。 「何で!? どこで『綾瀬』の奴に会ったの!?」  椅子に乗り、カウンターに膝をたてて、花映が有王に噛み付いてくる。  しかし、流しの中をかたづけながら、有王は落ち着いた口調で花映に尋ね返した。 「華陽妃・祥娥って知ってるか?」 「なに? それ?」  花映がきょとんとした顔をする。  あの少年の言うことが正しければ、花映の伯母ということになるのだが、もともと花映は、『綾瀬』についての大した情報はもっていないのだ。 「それじゃあ、由多って奴はどうだ?」 「ゆた!? 由多って、色の白い、目の大きい、甘えた口調で喋る奴?」 「まあ、……そうだな」  言われてみればそうだった、という程度の印象しかないが、有王は、花映がめずらしく雄弁に他人の容姿を語ったことを不思議に思いながらうなずいた。 「そんな感じだった思うが、あんまり長い時間喋ってたわけじゃないからな」 「嫌な奴!」  突然、吐き捨てるように花映が言った。 「あいつ、サイテーな奴だよ、有王!」 「ま、あ、確かにあんまりありがたい相手じゃあなかったが……」  有王が言葉を濁すと、手ぬるい! と言わんばかりに花映が首を振った。  赤い髪が激しく宙を切り、憤懣やるかたないといった様子だ。 「すごい意地悪で、もう、意地悪するためだけに生きてるような奴なんだからね! 私や耀の周りを用もないのにうろうろして、私たちが困るようなことばっかりを言ったり、したり。……士郎だって、いっぱい虐められたんだから」 「士郎を虐めた?」 「真実夜さまだって、由多のことは怒れなかったんだもの。ううん、私の知っている『綾瀬』の連中の中に、由多を怒れる奴なんて一人もいなかった。……時々は、菊名翁が由多をどっかに連れていってくれたけどね」 「菊名翁が? だが、菊名翁は、真実夜さんよりは下っぱにあたるんだろう?」 「そんなこと、私は知らない。有王は菊名翁に勝ったんだから、そんなこと思わないだろうけどね。菊名翁は、『綾瀬』の中では一目置かれてる呪術者なんだよ」 「勝ったわけじゃないさ」  むしろ、実力的には劣っていたのだ、と有王のなけ無しのプライドがわずかに揺らいだ。  あの時、匠の乱入がなかったら、そして、真実夜が事態を収拾しなかったら、恐らく有王はじりじりと態勢を崩して負けてしまったに違いない。 「勝ち負けじゃないけどね」  ふいに花映が言った。 「有王は、ちゃんと耀を捜してくれたし、守ってくれた。だから、それでいいんだけど」 「甘いな、花映」  ふうっ、と空気がもれるように笑いがこぼれた。  それにつられたように、花映も微笑む。  琥珀の瞳に光を映し、それはやんちゃな子犬に似たまなざしだった。 「ここにいると、生きていることが辛くないから嬉しい。自分の生きている意味を、無理やり考えてなくていいからね」 「そいつはよかった」 「だけどね、有王。昨日の人には関わらない方がいいと思うよ。あの人は普通の人間だけど、あの匂いは普通じゃない。家族や友達を亡くした人とも全然違うものだし、気配がくすんでる」 「気配がくすむ、ってのは、どういう意味だ?」 「うまく説明できないけど、輪郭がダブってるような感じかな」 「ふうん」  有王にもよく分からなかったが、花映の言わんとすることの概要だけはつかむことができた。  大野上勝は、確かに少し常軌を逸している。  それが生来の性格なのか、何事かが影響して現れた症状なのかは断じきれないが、彼は何か危険なことに手を染めているようだった。  それが呪術ならば、魅伽が手を引いたのは道理である。  分を越えたものに手を出せば、結果はおのずと見えてくる。  破滅と崩壊。  人間の世界には、『永遠』は存在せず、『絶対』は容易には認められない。 「魅伽のやろう。めんどくえーな、ちくしょうが」  呪文のように感情のこもらない声で唱えて、有王は冷蔵庫を開けた。 「魅伽ってだれ?」  花映が無邪気な質問を発したが、有王は顔を上げ、陰気な笑いと共に虚ろな目で花映を見た。 「根性がドロドロに腐った、金が生命のオバハンだ」  猪威《ししおど》しの音が閑静な日本庭園に響き、遠くの山辺を飛ぶ鷺《さぎ》の鳴き声が重なった。  寒気は背中にある暖気と混じり合い、魅伽の体にちょうどいい温度を感じさせていた。  部屋と庭をしきるガラス扉に手をかけて、魅伽は鷺の声が聞こえたあたりをみつめている。  しかし、実際には鷺を捜しているわけではなく、ただ、そちらに視線を泳がせているにすぎないのだ。 「失礼いたします」  声がかかり、すぐに襖《ふすま》がからりと開いた。  上品な絣《かすり》の着物を着た仲居が、丸盆を手に、馴れた動作で部屋ににじって入った。 「お寒くありませんか?」  少しだけほつれた髪をゆらして魅伽に尋ねる。 「ちょうどいいわよ。……気持ちいいもの」  魅伽は薄く微笑み、窓を開けたまま近くの籐椅子へゆっくり腰を下ろした。 「ここは、いいところね」 「そりゃあ、有名な下呂温泉ですもんね」  仲居がにこりと笑い、丸盆にのっていた菓子と湯飲みを卓に並べた。  湯飲みにはすでにお茶が入っているようで、部屋に流れこんだ寒気に反応して白い湯気を見せている。 「こちら、女将のおすすめの桜湯です」 「ありがとう」  魅伽は礼を言い、ゆっくりとした動作で立ちあがった。  純和風の部屋の中で、魅伽のいでたちは異彩を放っている。  ふうわりとふくらんだマンシュプーレの、黒いロングタイトのドレスをまとい、豊かな髪は渦をまきながら、その先が腰に届くほど伸びている。  くっきりとした艶やかな化粧は切れ長の目を強調するものだったが、それは鋭さばかりでなく、心の深淵を垣間見せるようなやわらかい影をたたえていた。 「ほんとうに、ここはいいところだわ」  魅伽が繰り返した。  ばさばさと大きな羽音が声に重なり、赤い大型のインコが、自分の定位置である魅伽の肩にちょこりと留まった。  もっとも、ごつい嘴も体も、ちょこりというのにはほど遠い迫力に満ちていたのだが。 「こーんな鳥連れでも泊めてくれるんですものね」  仲居が苦笑した。 「それでも、最初は自殺でもなさるかと思いましたけどねえ。やっぱり、お若いご婦人がお一人ですと、心配ですもん」 「あら、そうなの?」 「へえ、でも、女将があのヒトは違うとおっしゃって……」  申し訳なさそうに言う。  魅伽は悦然と微笑み、軽く前髪をかきあげた。 「私は、待っているのよ。……この矛盾を終わらせてくれる、あの男《ひと》を待ってるの」  遠くで、また鷺が鳴いた。  閉じたガラスの向こうから聞こえる声は、どこか赤ん坊の泣き声に似ていた。 「さて、なんか食っとくかな」  一通り、開店の下準備を終えた有王は、ぐんと両腕を伸ばして花映に告げた。  体の節々はまだ痛んだが、かなりほぐれた感覚がある。  しかも店内が小綺麗に片付き、ほどよく暖房もきいているので、有王の胸には痛みを無効にするほどの充実感があった。  ピカピカで指紋一つないグラス。  各テーブルに飾られた一輪挿しの花。  きちんと整えられた箸やナプキン。  有王が労働の喜びを感じるのはこういう瞬間で、間違っても『呪術』にたずさわっている時ではない。 「花映、何が食いたい?」 「何でもいいけど、酸っぱくないもの」  軽くうなずいて冷蔵庫からラムの塊を取り出し、有王はフライパンを火にかけた。  解凍されたラムは骨付きで、ゆがんだ半円のまま調理されるのを待っている。 「こいつは、桑名さんのお勧めだ」 「……あの、肉を運んでくれるおじさん?」  うなずきながら、有王は店に肉類を搬入してくれる人物を頭に描いて苦笑した。  市場で使うナンバープレート付きの帽子をはすにかぶった初老の男性は、まさに仕事人といったおもむきを身に備えている。  小柄で、半分頭が白くなっているのに、やんちゃと呼ぶのがもっともふさわしい口調や態度できびきびと仕事をこなす。 「桑名さん、最近、鳥がよく出るなって言ってたぞ」 「うん、あのおじさんのもってくる鳥はすごく美味しい。生の方が好きだけど」 「ん、……まあ、美味いんならいいさ」  有王は少しだけ優しい顔になり、油を注いだフライパンに、軽く塩こしょうしたラムを落とした。  油の弾ける音と共に、香ばしい匂いが漂う。  もっとも、調理の匂いが店中に広がらないよう、コンロの上には大きな換気扇が設置してあるから、そうした匂いを楽しめるのは、だいたいカウンターあたりに陣取っている者だけということになる。 「その桑名さんが、使ってみろって持ってきてくれた肉なんだが。どうかな? これが好評なら。ちょっと店にも出してみようと思ってんだ」  ラムを調理して出すなんて、ちょっと高級感があるかもしれない、と有王は新しい食材におおいに乗り気になっていた。  その高級感が、そもそものワンショット・バーの路線からはズレていることに、バーテン自らも気付いていない。 『だいたいさ』  客が、『辻』を居酒屋のように使うとなげいていた有王を評して、匠が花映に言ったことがある。 『有王の料理が上手いから、みんな食べることに熱心になっちゃうんじゃないの?』  匠が有王を誉めるなんて、花映には驚きの事実であった。  それならば、直に誉めてあげればいいのに、と言うと、『駄目。つけあがるから』と一言のもとにいなされた。  とにかく、匠にとっては、有王は玩具以外の何物でもないらしい。 「桑名さんのお勧めの肉なら、美味いぞ、きっと」  調味料や果実、野菜を煮込んだソースを肉にかけながら、有王が少し浮かれた口調で言った。  すぐにぷつぷつと泡立ちはじめた液体を、大きめのスプーンですくっては肉にかけていく。 「よしっ、あとはオーブンだな。花映、匠と耀を呼んできてくれ」 「わかった。本殿に入っていいの?」 「外から、ちゃんと声をかけてな」 「うん」  軽い足取りで立ち上がり、階段も上がった花映は、しかし、外へ出ることができなかった。  ノブに手をかける寸前にドアが開き、外から田原坂が駆け込んできたからだ。 「うわあっ!」  そこに人がいるとは思っていなかったらしく、田原坂は驚きの声を上げる。  それから、花映を突き落とさぬために半身をひねり、バランスを失って自分が階下へと落下してしまった。  木製の階段に、ごんごんという嫌な音が響く。 「田原坂さん!」  有王はあわててカウンターから走り出たが、手を貸す寸前にはもう、田原坂は前屈みの格好のままで立ち上がっていた。 「いたた……。すみませんでした。どこか、壊れませんでしたか?」  ふらつく頭をささえつつ、首をめぐらす田原坂を制し、有王は二度驚いた。  田原坂の左頬が、真っ赤に腫れ上がっていたからだ。 「どうしたんだ、これ!?」 「あ、いや、……これは違います」  いてて、と顔を微苦笑にしかめつつ、田原坂はふと気付いたように、自分の顔をつるりと撫でた。  肩越しに、花映が銀縁の眼鏡を差し出す。 「ああ、すみません」  レンズをハンカチでぬぐってかけたが、左側のレンズには、二股に分かれた亀裂が入っている。 「怪我はないか?」 「はあ、おかげさまで。私、体だけは昔から大丈夫でして」 「しかし、……その顔は……?」  有王が遠慮がちに尋ねると、自分の頬に指先を触れ、田原坂は恥ずかしそうに微笑んだ。 「これは、……少し前に、お客さんに殴られてしまいまして。……その、水もれの苦情がらみなんですが、どうも階上の方の対応が悪くて、ひどく腹を立てておられたようでして。……こっちに、がつんと」 「ちょっと待ってくれ。氷を出すから。もしかして、ゲンコで殴られたのか?」 「そうなんです」  ビニール袋に氷をつめ、タオルで包んで渡すと、田原坂が短く礼を言った。 「それが、ちゃんと握ってなかったらしくて、相手の方も指をくじかれまして。今、うちの者が病院にご案内したところです」  悲惨だが、まぬけな話だ、と有王は思った。  この場に匠がいれば、自業自得と言いはなったかもしれないが、有王には、そこまで口にする強い感情は存在しなかった。  同じく働く者として、田原坂と対等に近い意識をもっているせいかもしれない。  世の中は、とかく理不尽なことも多い。 「その水もれってのは……」 「臭い!」  有王の声に、無遠慮な花映の言葉が重なった。  オーブンの中の肉が焦げているのかと慌てる有王を後目に、花映が田原坂の袖口に鼻を近付けた。  くんくん、と音が聞こえるほど激しく、田原坂のコートの袖口を嗅ぐ。  あまりにあからさまな様子に田原坂が赤面して、半歩うしろにさがったほどだった。 「何か、臭いですか?」  顔を赤く染めたまま、田原坂はコートを脱いだ。  下からは、いつものかっちりしたスーツと、白い小さなうさぎの並んだネクタイが現れる。  しかし、花映は田原坂が脱いだコートには目もくれず、今度はスーツの匂いを真剣に嗅ぎ、きっぱりとした口調で言い放った。 「臭い。田原坂さんも、有王やあの男と同じ匂いがする。あの嫌な匂い。死体の匂いだ」 「死体の匂いですって?」 「うん、昨日、有王を尋ねてきた男と同じ匂いだ。だけど、田原坂さんの方が新しい匂い。薄いけどはっきりしている」  花映の言葉に有王は目を細めた。  日にきらめいた瞬間しか目に映らない、蜘蛛の糸の存在を確かめようとするかのように。 「田原坂さん、最近、だれか新しいお友達でも増えなかったか?」 「ああ、はい、そのことでお伺いしたんですよ」  あっけらかんと田原坂が答えた。 「実は、その……昨夜、風変わりな女性と知り合いになりまして」 「なんだ、田原坂さん、ナンパしたの!?」  話が佳境に入るよりもずっと以前に、ばーん! とドアを開けた匠の絶叫が話の腰をこなごなに粉砕した。  後ろから、やや遠慮がちな動作で耀が続いている。 「腹が減ったよ、有王」 「今、用意している最中だから、もう少し待ってくれ」  有王が嘆息混じりに答えると、匠はピアノの前に座って黒い蓋を持ち上げ、ポ、ポンと左手だけで鍵盤を弾いてみせた。 「今夜は桑名さんの持ってきたラムだろう? 楽しみだな」 「何で分かるの?」  花映がきょとんとした顔で尋ねる。  鼻は自分の方が数段いいはずなのに、と無言で語る瞳に、薄い微笑を浮かべた耀の顔が映っている。 「ボクが頼んだからだよ。桑名さんにさ。ラムが食べたい、持ってきてくれよーってね」  匠は、さもおかしそうに笑って、すごい勢いで鍵盤を叩き始めた。  鍵盤台の蓋しか開けてないので、少し音がこもっている。 「御礼に、これを弾いてあげたからね」 「何、それ?」 「ああ、『きらきら星変奏曲』ですね」 「当たり。さすが田原坂さんだ。うさちゃん柄のネクタイ締めてるだけあるね」  上機嫌で最後まで弾き終わり、匠は悠々とした動きでピアノに蓋をした。  拍手したのは田原坂と耀だけで、花映はぽかんとし、有王は肩をすくめただけだった。 「あのね、桑名さんのお孫さんが、発表会でこれを弾くんだってさ。ほら、知らない曲だと演奏中に眠ってしまうことがあるだろう? だから、一応、予行演習をね」 「……他の曲はどうするんだ?」 「さあ? 聞かないんじゃないの? 身内が出る発表会って、そんなもんじゃない?」  今度は、匠が肩をすくめた。 「よその子が、自分の子よりも上手だって悔しくなるのは、お母さんたちだけで充分ということでね」 「いや……そういう意味じゃないんだが」  まあ、いいか、と有王は思った。  そろそろ、ラムもいい具合に煮えているはずだ。 「田原坂さん、顔の腫れは落ち着いたか? 歯が無事なら、夕飯を一緒にどうかな?」 「ははあ、いい匂いですし、魅力的なお誘いですがね。すみません、実は、有王さんにお願いがあって……」 「それより、さっきの田原坂さんがひっかけた女性の話はどうなったんだい?」  田原坂の言葉を遮り、匠が尋ねた。  彼は、どうあっても田原坂の来訪の理由を聞きたくないらしい。 「ひっかけたって、神サマが言うかね」 「いいじゃないか。まったく頭がかたいんだから。君はさ、料理ができるし、働き者だから、稼ぎのいい嫁さんをもらって、引退しちゃったほうがいいんじゃないの?」 「何を言ってるんだ」 「いやいや、それでね、今のお役目は、有王の娘に継いでもらうんだよ。いいと思わないかい、田原坂さん?」  はあ、と苦笑しながら田原坂が尋ねる。 「匠さんは、女性の呪術者の方がお好みですか?」 「うーん、……面白ければ、どっちでもいいんだけどね。たださ、僕が有王の一族と関わりをもってからこっち、男の継承者は有王が初めてなんだよね」 「じゃあ、ずっと女性が『呪禁道』を?」 「そうそう、もっとも、まだ二、三人だよね。明治ぐらいだからさ。有王のひい婆ちゃんかな? すらりとした美貌の女呪術者がね……」 「地方の谷かどっかでヤサグレてた御霊神を、空席の神社にご案内したって話らしいな。余計なことをしてくれたもんだぜ」 「ヤサグレてたつもりはないけどね。それまで奉っててくれた一族が滅んでしまってさ。これでも、一応は困ってから、『ずっと側にいてお奉《たてまつ》り申しあげます』と言われた日には、もう」  はっはっは、とらしくない声で匠が笑った。 「その女性が花映ちゃんに似ててね。有王と交替して、花映ちゃんがお役目を勤めてくれてもいいなと思うんだけど」  食事の用意が整ってきたとみた匠が、ピアノから離れてカウンターに歩み寄る。  ついでに、花映の両肩に手をおいてにっこりと笑った。  花映は顔をしかめたが、別に邪険に手を振り払うことはない。  ただ、匠よりも若干背が高い花映の背後に回ると、肩に置かれた白い指だけが目立って心霊写真のようだった。 「でも、その、花映さんは呪術者ではないんでしょう? 匠さんを奉るのは、呪術者でなくてもいいんですか? その、さっきおっしゃったように、有王さんの娘さんとか……」 「いもしない人間の話はやめてくれ。別に、血縁者でなくても構わないんだ。そうだろ、匠?」 「まあね。そういう意味でなら、有王の家系も、血そのものは何度も切れてるみたいだしね」 「いいんですか?」 「いいんだよ。実際に、それで何とかなってるからな」 「そうそう、別に目くじらをたてるほどのことじゃない。目に見える。確たる財産があるわけじゃないしね」  田原坂の問いに、有王も匠もあっさりと答えた。  実際に、そこまでさらりといなされると、本当に大した問題ではないように聞こえるから不思議だ。  しかし、匠に関しては、すでにオーブンから取り出されたラムの煮込みに夢中になっていて、田原坂の質問に真剣に答えようという気がないように見える。 「そういやあ、田原坂さんの用事はどうなったんだ?」  会話からドロップアウトした匠を後目に、有王は話題をもとに戻した。 「ああ、そうでした。すみません、話がそれちゃって。……実はですね。その、知り合いになった女性というのが、ほとんど記憶をなくしていらっしゃって」 「へえ、大変だな。それで、病院へ?」 「いえ、うちにいらっしゃいますけど」 「ふうん。……え? 何で田原坂さんの家へ?」 「それが、警察はいやだとおっしゃるもので、とりあえず」 「なるほど。けど、身元を調べないと、いつ記憶が戻るか分からないんじゃないか?」  鉄板の上でラムを切り分けながら、有王は、途中でとぎれた田原坂の話を繋ぎ直そうと躍起になっていた。  呼ぶ前から匠が入ってきたことがそもそもの敗因で、馬鹿な話に興じたおかげで少し頭の中が混乱している。 「そうなんですが、……問題はそこではないんです」 「と、いうと?」 「『どこかへ行かなくてはならない』そうで、……その、食事も睡眠も一切とられませんで」 「はあ!? 食べなくて眠らないって、……それ、もしかして人形か何かじゃないのか?」 「いえ、人間の女性です」  田原坂が言った。 「お名前はご記憶のようで、倉内十紅子、と」 「ビンゴ!!」  いきなり匠がわめいたので、有王は田原坂の言葉を最後まで聞くことができなかった。  花映が喧しそうに耳を手でおおったが、耀は動じることなく茶碗にご飯をよそっている。 「当たりだ! 有王!」 「うるせーな。何が当たりだって?」 「だから、クラウチトクコは当たりなんだってば。確か、昨日たずねてきた大野上って男が捜しているのが、そのクラウチトクコだったろう?」 「ああ、そうか」 「『ああ、そうか』じゃないよ。君の仕事じゃないか。まったく、ボケナスなんだから」  ふっ、と嫌味に笑って肩をすくめる匠を見ていると、有王の内側にむかむかと怒りが湧いてきた。  もちろん、匠は有王を怒らせることを目的にしているのだから、そんな感情を抱くことは匠の思うツボとは分かっている。  しかし、わかっているから抑えられるというものではなく、内心してやったりとほくそえむ匠の心中を思うと、有王は余計に腹がたってくるのを感じた。  これでは、堂々巡りである。 「何でおまえがそんなことを知ってるんだ? あの時は、ここにいなかったじゃないか」 「僕は神さまだからね」  匠が嘯《うそぶ》いた。  田原坂は、まだよく訳がわからないといった表情で、有王が説明してくれるのを待っている。 「ほんとはさ」  耀が用意した箸を左手にもちかえながら、匠がつまらなそうに種あかしをした。 「あの大野上って男、神社の方に何度も意識を飛ばしてたんだよ。それが、どうにも気にさわってねえ。ただの人間なのに、彼は僕の存在を知覚していた風だし、何て言うの? さすがに魅伽ちゃんの紹介だけあって、死相みたいなもんを感じさせてたからね」 「死相?」 「はっきりみなかったけどね。それに関わって、しかも、コントロールしようとしてる。身の程知らずもいいところだ。ああいうのは、危ないよ」  有王たちは、もっと詳しく話を聞こうと身をのりだしたが、匠はすっかり説明に飽きてしあったらしく、早く、ラム、ラムと繰り返す。 「こいつは、もう役にたたない。田原坂さんの家に行けば、その倉内十紅子が居るんだな?」 「居ますよ、崇くんと一緒に」 「崇と?」  それは、道々説明します、と田原坂が明るい声で言った。  とにかく、有王が来てくれるなら何でもいい、という風に、田原坂の目が銀縁の眼鏡の向こうで細まった。  煙草の灰がばさりと絨毯に散った時、大野上はようやく自分が煙草をくわえていることを思い出した。  もう、ほとんどフィルターの近くまで火が迫り、薄闇の降り始めた室内は、煙草の煙のせいでひどく霞んでいる。  カーテンのない大きな窓の向こうには、朱と赤と青の混じり始めた夕暮れの光景がが広がっている。  点り始めた明かりと闇に沈むビルの群れ。  細い灰色の川に似た道路と、そこを流れていく車の列。  すべてが、夢のようだと大野上は思った。  美しくも素晴らしくもない風景は、夢のように捕らえ所なく、無意味なものだと感じられた。  世界には色など必要なく、音も、温度もなくなってしまえばいいと思う。  それらは、全てが煩わしいだけの、心をさいなむものだった。  仕事にいかなくなって、もう何日になるだろう。  だが、出てこいとも言われない。  ふと口もとに手をあてると、ざらりとした無精髭の感覚が指に残った。  昨日、久し振りに髭をそったのに、もうこんな状態になっているのかと思うとおかしかった。  昨年の夏、ある事件をきっかけに、自分は自分ではないもに変わった、と大野上は思う。  しかし、それは、もともとあった性格が、仮の性格を押し退けて、ようやく顔を出した、というだけに過ぎないような気もする。  目を閉じると、あの奇妙ないでたちの『呪禁師』が水に散らした、赤い花びらだけが鮮やかにまぶたの裏に浮かんだ。  あれは、彼女が散らした赤い血と同じ色だ。  あれを見た瞬間から、自分は悪魔に魂を売ったのだと自覚する。  あるいは、足もとから這い上がってきた黒い悪意が、全身を同じ色に染めてしまったのだ、と。  大野上は近くのテーブルにあったクリスタルの灰皿で煙草を揉み消し、大きく息をついた。  花梨材の丸いテーブルには、灰皿からこぼれ出た吸殻と灰が、だらしなく周囲に山をつくっている。  以前の大野上なら、急いでかたづけたはずだった。  母親はきゃんきゃんと吠え立てては、大野上を自分の意のままに動かそうとした。  父親は物や金を与えるのが愛情であり、親の義務だと信じているような人物だった。  豪華な玩具や勉強部屋、学問のための金、名の通った職場と不相応な地位。  ああ、なんだ、自分と同じじゃないか、と大野上は苦笑する。  全てを意のままに操りたがったのは自分で、金や物で他人の心を買おうとしたのも自分だ。  確かに、自分はあの両親の息子に違いない。  憎んでいたはずの彼らのやり方を、寸分違わず受け継いでいる。  かつては、そんな自分に心を痛めたこともあった。  両親の手に繋がれた糸を切ろうと、もがいたこともある。  しかし、それは無意味だ。  いまさら、全ての流れを変えることは不可能なのだ、と大野上は信じていた。  部屋の呼び鈴が鳴り、返事もしていないのにドアが開く。  そこには、水色のコートを着て、邪悪な笑みを浮かべた美しい天使が立っていた。  あの夏の日に、大野上に『始まり』を囁《ささや》いた、黒い瞳の少年、由多が。 「行こうよ、勝さん」  由多がささやいた。 「ボク、十紅子さんの居所を知ってるんだ」  ああ、と唸り声に似たいらえを口にし、大野上はゆっくりと室内をよこぎった。  ベッドに投げ出してあったコートを羽織り、サイドボードの上の黒い塊を懐にしまう。  冷たい鉄のかたまりは、それでも、冷えきった十紅子の指よりも温かく感じられた。  電車を降りると、すっかり日が暮れていた。  有王をマンションへと案内しながら、田原坂が道々、倉内十紅子のことを説明する。  そのどれもが『常識』をは相容れない内容だったが、逆に、有王の考えを確信へと導くための材料にはなった。  二人は冷たい夜の風に髪を揺らしながら、短い道程を急ぐ。 「ただいま帰りました」 「ああ、お帰りなさい」  田原坂がマンションの管理人に声をかけると、窓口から外を覗きながらラジオを聞いていた小柄で小太りの婦人が顔を上げた。  ピンクの口紅が、少しはげかかって滲んでいる。 「お友達ですか、田原坂さん?」 「はい、友人です」  婦人がじろりと有王を見たが、田原坂の返事にためらいがなかったので追及する気はなくなったらしい。  ガラス扉のロックが外れる音がして、自動で横に開く。  まっすぐエレベーターに駆け寄り、上昇のボタンを押して少しだけ待った。 「田原坂さん、彼女は、苦しそうじゃないか?」 「……そんな風には見えませんが」 「そうか」  短い沈黙が落ちる。  かすかなあかりと共に、目の前にからっぽの箱が降りてきて、二人を三階の田原坂の住居まで運び上げてくれた。 「どうぞ」  先に部屋に入りながら、田原坂は有王を招く。  室内は真っ黒で、電話機や非常ボタンや火災探知機の小さな明かりだけが毒々しい色で点灯していた。 「あれ、崇くんたち、まだかな?」  明かりを点けながら、田原坂はつぶやいた。 「ええと、お茶を入れますから、ソファに座って下さい。そのうちに崇くんたちも帰ってくると思いますから」 「FAXが入っている……」  他人の部屋というのは所在ないものだが、田原坂の住居には、主《ぬし》に似たスキのようなものがあった。  ぐるりと室内を見回し、有王はわずかに微笑を浮かべる。 「ああ、仕事のFAXでしょう。すみません、ちょっと失礼して、FAXを……、え!?」 「どうかしたか?」 「これ、見て下さい!」  ぺらぺらの感熱紙を有王に突き出し、田原坂は手の甲を額に押し当てて動揺をごまかそうとする。  紙には、上半身脱帽の若い女の写真が印刷されていて、横にはおおぶりな文字で捜索願いと書かれていた。 『倉内十紅子・二十二歳。昨年、八月、岐阜県いさわ町のダム工事現場あたりで行方不明。周辺住民総出で、現場付近にて倉内十紅子のものとみられる多量の血痕が見付かったことから、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあると考えられる』  汚い書き文字の下に、バーイ・須田やんという署名があった。 「なんだ、これは!?」 「友人からのFAXですよ。警察に勤務している友人がいるんで、行方不明の名簿に『倉内十紅子』という名前がないかどうか、捜してくれるように頼んでおいたんです。捜索願いは、今はオンラインで閲覧できるそうですから」 「捜索願い、か……」 「つまり、その、倉内さんは特異な体質の持ち主で、単に記憶喪失を起こしている、ということですよね?」 「いや、逆だ」  有王は口もとを手で覆い、抑えた声で言った。 「逆って……?」 「ちょっと、電話を借りてもいいか?」 「はい、どうぞ」  田原坂の返事を聞くよりも早く、有王はまだ脱いでいなかったコートのポケットから一枚の名刺を取り出した。  爆発にまきこまれた時に着ていたコートは、すでに泣く泣くごみにしてしまったが、幸い、ポケットの中身は無事だったので、こちらに全部移し替えて置いたのだ。  受話器をあげて、有王は、大野上勝が滞在しているホテルの番号を押した。  コール音の後に返った答えは『ご不在です』の一言だった。  電話を切ると、今度は会社に電話をした。  こちらでは受付が出て、やはりしばらくまたされた後、『ご不在です』と言われてしまった。  さすがに会社だけあって、『ご用件を承りましょうか』と問われたが、伝言を頼めるような用件ではなかったので断った。 「どちらに電話を?」 「倉内十紅子の、もう一本のてがかりを……」  有王が受話器を置いた途端に、今度は呼び出しの音が響いた。  そのまま持ち上げて田原坂に手渡すと、田原坂は礼を言って受話器を取った。 「はい、田原坂……」 『田原坂さん!!』  名乗るよりも早く、安堵と焦りをないまぜにした崇の声が耳を打つ。 『よかった〜!! もう、全然電話が通じないんだもんな。どうしようかと思ったよ。やっぱ、PHSは頼りになんねえな。すぐにエリア外になって……』  おろおろとした声の向こうに、ごとごとという音が聞こえてくる。 「崇くん? 今、どこにいるんです?」 『ええと、……もうすぐ名古屋』 「は!? 名古屋!? 名古屋って、愛知県の名古屋市ですか?」 『ああ、名古屋って愛知県なんだ。知らねえけどさ、新幹線の名古屋駅がある名古屋だよ』 「今、新幹線に乗ってるんですか!?」 『そう、十紅子さんが岐阜県のいさわ町へ行くって言うんだもん。勝手にふらふら歩くのとめて、切符を買うのは大変だったんだからな』 「それじゃあ、倉内さんが自分から岐阜へ行くと言い出されたわけですね?」 『そうだよ。金も預かってたし、それは助かったけどさ。……どうしようかと思って』 「……どうしますかね」  田原坂は目を上げて有王を見た。  崇が倉内十紅子と共に岐阜へ向かったことを知ると、受話器を渡すように有王は言った。 「おい、崇」 『あれ? なんで、有王がそこに居んの?』 「いいか、よく聞けよ。とりあえず、おまえは行ける所まで、倉内十紅子に同行しろ。こっちも、すぐに後を追う」 『でもっ! どこまで行くのか、はっきりは……』 「分かる。……多分、彼女は……、いや、とにかく、場所はおれたちにも分かるから」 『そっ、それから、燿たちを追っ掛けてた奴等の仲間が……』 「それも分かってる。すぐに見付けてやるから、心配するな」 『ホントだな!? すぐに来てくれよ』 「ああ、すぐ行く。……すぐに追い掛けるが、最低限は自分で気をつけとけ」 『なんだよ、それ』  明らかに安堵した様子で、崇の言葉に笑い声が混じった。  有王が受話器を置くと、田原坂がすぐに同じ問いを繰り返した。 「どうしましょう?」 「もちろん、おいかけるに決まっている」  有王は強く言った。  実際には、どんな結果になるのかは、よく分からない。  分かっているのは、おそらく、崇の拾った『十紅子』が、倉内十紅子という人間を模して造られた傀儡《くぐつ》ではないか、ということ。  傀儡……すなわち、あやつり人形だ。  傀儡が主を捨てて、自分の意志で動くなど聞いたこともない。  もしも傀儡と主を結ぶ『糸』が切れたのなら、『十紅子』の体を持つ傀儡には、『十紅子』の意思が宿ったのかも知れなかった。  多分、十紅子は自分の原体が死んだ場所に行くつもりなのだ。  だが、それが『綾瀬』の術者の仕組んだ罠なのか、単に傀儡の望みなのかは、有王には断じられなかった。   田原坂の家を出た有王たちは、その足で東京駅に向かった。  中央線を降りて、新幹線乗り換え口に走ると、そこには、有王の電話での指示通りに花映が立っていた。 「花映さん、めだちますね」  田原坂が、妙に冷静な声で評する。  黒いショートパンツに黒いロングブーツ。  白いシャツブラウスの襟をペールグリーンのVネックセーターからのぞかせて、黒いハーフコートを羽織った花映は、無造作にそこに立っているだけで人目を引いた。  すらりと背が高く、モデル体型だからという理由だけではない。  身にまとった独特の雰囲気が、まるでスポットライトに当たっているかのように、花映を周囲から浮きたたせているのだった。 「おい、花映!」  周囲の視線を気にせずに、有王は花映に声をかけた。  有王も目立つ部類の人間だから、人待ち、時間待ちでその場にいた人々は、どこか感嘆に似た吐息をもって、この長身の二人へ密かに視線を送った。  目立つことの嫌いな有王は、そんな視線を殊更に無視して、用意していた切符を花映に手渡す。  花映は、神妙な顔付きで緑色の細い長い紙を受けとった。 「匠、何か言ってたか?」 「なぁんにも」  肩をすくめる花映を見て、有王は息をついた。 「……だったらいい」 『辻』のオーナーのやる気のなさは、今に始まったことではない。  燿に『本日休業』の札を出させて、今ごろは楽しくやっているのだろう。 「さあ、行きましょうか。ちょうどいい時間ですから、すぐに乗れると思います」  田原坂が二人をうながした。  改札を通って階段を上がると、彼の言った通り、すでに発車待ちの白い車体が吹きさらしのホームに横付けされている。  乗り込むと同時に車内アナウンスが流れ、静かに走り出した。  適当に空いている席にすわり、食事がまだの有王と田原坂は、車内販売の弁当を買って膝においた。  ちょうどその時、田原坂のポケットに収まっていた携帯電話が鳴り、失礼しますと言って、彼はデッキに出ていった。  しかし、すぐに戻ってきてにっこりと笑った。 「雪は、……少なくとも愛知県内は降ってないそうですよ」  田原坂の家を出る時、名古屋から先の行程に雪が降っているのではないか、と心配していた有王は、その報告にほっとする。 「どこからの電話だったんだ?」 「同僚からです。時間が遅くなりますから、レンタカー屋に営業時間の確認を入れてもらうついでに、あちらの天候も聞いておいてもらったんです」 「準備万端だな」 「これくらいしか、できませんからね」  田原坂が頭をかいた。  二人は、がさがさと弁当の包みを解き、それを退屈そうに見ていた花映が、突然、ぴょんと頭を持ち上げた。 「あ! そうだ!」 「なんだ? 何かあったのか?」 「あった、電話が」 「誰から……? 崇か?」 「違う。女の人の声で、『待ってるわ』って。どういう意味か聞いたけど、意味は後で分かるからって切れちゃった」 「なんですか、それは?」 「分からないけど、笑ってるみたいな声だった」 「いたずら電話ですかね」  田原坂が怪訝そうな顔をする。 「……魔女からの電話だよ」  魅伽からの電話だ、と有王にはすぐに分かった。  彼女が待っているといえば、文字通り、有王たちが崇と十紅子を追う行程のどこかで『待っている』という意味だろう。  優れた占者である魅伽には、無防備な有王たちの行方を知ることなど、さして難しいことではないのだ。  しかし、魅伽に持ち込まれた『倉内十紅子捜し』は、すでに有王の手によって、別の局面を迎えつつある。  それが分からない魅伽でもあるまいに、今さら首を突っ込もうという考えは解せない。  勘弁してくれよ、と有王は、両ひざにひじをついて頭を抱えた。 「魔女ってだれです?」  割り箸を動かしながら、田原坂が尋ねる。  同じように、白いパックの中に整然と並んだ卵焼きやウインナーをつまみながら、有王は溜め息まじりに説明した。 「相良魅伽って女だよ。新宿で占い師をやってる」 「占い師、ですか」 「まあ、世間一般の占い師ってのは、うさんくさい奴が多いけどな。あいつは占いが当たる分、人間的にうさんくさい」 「はあ」  よく分からない、という風に、田原坂が言葉を濁す。 「それに、あいつはいろいろなものが見える分、頭の中がややこしいらしいぜ。若いころはぐちぐちと、愚痴ばっかりこぼしてた……から」  そういえば、学生時代の魅伽は、今よりも数段ナーバスな性格だったような気がする、と有王は考えた。  今でこそ、守銭奴でパワフルな女占い師になってはいるが、昔はもっと悩み多き女性だったのではなかったのか。  いや、同情は禁物だ、と有王は強く自分をいましめた。  魅伽は立ち直りが異常なほど早い。  それは、昔から変わらない性格のはずだ。  なまじ、その落ち込みにつきあってしまうと、あっさりとどん底に置き去られてしまう危険性が大きい。  何度、そんな目にあわされたことか。  もう、魅伽とはビジネスライクなつきあいのみに徹するべきだ。  と今まで一度として守られたことのない決意を、有王は胸の内で繰り返し自分に言い聞かせていた。 「魔女に仏心は禁物だぞ。いいな、田原坂さん!」 「なんか、和洋折衷ですね」  くすり、と田原坂が笑ったので、有王は、また自分が我を失っていることに気付かされた。  これでは、魅伽に呪縛をかけられているも同じである。  世間では、そうした呪縛は恋と呼ばれるかもしれないが、有王にとっては、ただの忌ま忌しい『呪縛』にしかすぎない。  腐れ縁という言い方も存在するが、自分と魅伽との間に『縁』があるなど、有王は爪の先ほども考えたくなかったのだ。  しかし、これでは、子供の意地と大差ない。 「でも、有王は、その魅伽さんという人の店で、爆発に巻き込まれたんだろう?」 「まあな。ぶっとばしてくれたのは、おまえの従兄弟の綾瀬由多だよ」 「え? 爆発って、新宿の『津島ビル』の爆発ですか?」 「ああ、田原坂さん、何で知ってるんだ?」 「ニュースで流れましたよ。へえ、有王さん、その場にいたんですか? でも、怪我人がでなくてよかったですね」  その場もその場、爆発の中心部に、その瞬間の寸前までいました、とは、さすがに説明する気にもなれない。  そして魅伽が、壊れてしまった全ての物の代金を、有王を媒介にして取り戻そうと考えるだろうことも、容易に想像ができた。  たとえ、それが有王のせいでなくとも、だ。 「その、……魅伽さんという方が、『綾瀬』と関係のある方だということはないんですか? 崇くんも、電話で、確か……」  突然の田原坂の問いを不審に思いながら、有王は即座に答えた。 「それは、ないな」 「断言できますか?」 「できるね。あいつは、団体とはつるまない性質なんだ」 「その根拠は?」 「儲けが減るだろ」  有王は、端的に言った。  説得力は薄いかもしれないが、それも魅伽という人物を知るまでの話だ。  一旦、魅伽と関わりをもったら、これほど説得力のある言葉はないと思えるようになるはずだった。 「それじゃあ、……倉内さんのことは……?」 「彼女とのつながりは、はっきりとは分からない」  困った様子で頭をかき、有王は腕組みをしてシートに強く背をつけた。 「『綾瀬』のご紹介とも知らずに、いい加減に仕事を受けたかな。大野上のことは、かかりつけの歯医者の紹介、ってふれこみだったぜ。どっちにしても、魅伽は『綾瀬』のことなんざ、知りもしないと思うけどな」 「……そうですよね。それで、魅伽さんという方が、有王さんに人捜しを依頼なさったのは、どういう理由なんです? 占い師なら、人捜しは得意そうに思えますけど」 「うん、あいつは人捜しは得意だよ」 「だったら……」 「だが、倉内十紅子本人が死んでるはずなのに、星が動いてるのが気にいらないんだとさ」  は? と田原坂が妙な声と共に息を吐いた。 「待ってください。私と崇くんは、倉内さんに会ってるんですよ」 「そうだな。……だから、おれは、多分そいつは傀儡なんじゃないかと思ってる」 「傀儡って、……人形ですか? ちょっと待って下さい! 彼女は人間ですよ!?」  田原坂が気色ばんだ。  彼のこんなに非難めいた強い口調は初めて聞いたが、だからといって譲る気持ちはこれっぽっちも起きない。  事実は事実だ。 「人形を人間に見せる方法もあるんだ」 「生きて、動いている人間にですか!? 歩くし、喋るし、怪我だってするんですよ?」 「しかし、血は流れない。そうだろう?」  う、田原坂が言葉につまる。 「どんなに出来がよくても、傀儡には体液にあたるものがない。だから、血や涙を流すことはできないんだ。怪我だってすぐ治る。それは、原型を損なわないように造られているからだよ。そういう仕立てだ」 「仕立てって、……そんな……」 「傀儡というのは、もともとは傀儡師と呼ばれていた特殊技能者が莎草《くぐ》で編んだ箱に入れて持ち歩いていた人形を指すんだ。その傀儡を使って、神を降ろし、物語して、託宣を受ける。祭礼の原型の一つだ」 「それが、彼女と何の関係があるんです?」 「直接は関係ない」  窓の外に視線を遊ばせ、有王はあっさりと言った。  田原坂には馬鹿にした態度だと思われたかも知れないが、熱心に十紅子のことを案じる田原坂と対峙し続けることが、有王には苦痛に感じられた。 「傀儡師も、……呪術師や陰陽師のように、時代の流れとともに変化してきたんだ。全国を行脚する性質から、忍者に変じたという説もあるし、もっと別の説もある」 「はっきりしないんじゃないですか」 「はっきりはしない。確かにな。だが、彼らが人形呪術のエキスパートであるということだけは、変わりようのない事実だ」 「だからって……」  田原坂が、疲れ果てたように肩を落とした。  呪術のことで言い争って、有王に勝てるはずがない。  しかし、それでも言いつのりたい気持ちを、どうしてもすっきりとは抑えてしまえないのだろう。 「場所を特定すれば、おれだってかなり人間味のある『人形』を造ることができるよ。しばらくなら、相手を騙すことができるくらいのものはな」 「……どうするんです?」 「紙を人の形に切り抜いて、呪文を書く」 「それだけのことで、紙が人間になるんですか!?」 「ならないよ」  有王は腕を組み直した。 「ならないが、それらしく見せることはできる。例えば、夜、風のない晩に、誰かを『辻』まで案内させるくらいのことはな」 「紙に……!?」 「それが、『呪術』というもんなんだ」 「すみませんが、私には信じられない……」  田原坂が息をついた。  そこには、さきほどまで溢《あふ》れていたはずの反意はなく、ただ理解できないという悔しさしかない。 「そうだろうな。いいよ、それが普通の反応だ。それに、おれにできるのはそこまでだ」 「世の中が、信じられなくなりますよ……。紙で人間そっくりの人形を造るなんて」  つぶやくように言い、田原坂は喉の奥で小さく唸った。  呪術者が紙で人間を造れるんなら、世の中の常識までも紙切れ同然に思えてしまう。 「だから、さっきも言ったように、紙なんかで作った人形は、えらく時間や場所が限られるんだよ。風もだめだし、強い火気のそばは問題外だ。人間に見えても、紙の特質を失うわけではないんだからな」 「そっちの方が怖いです」  いかにも人間に見える物が、風になびいたり燃えたりすることろは、ほとんどホラー映画の世界だ。 「だが、それ以上に精巧な傀儡となると、……とんでもなく高度な呪術だとしか言えない。さっき言ったような人形は、木や骨からでも造れるんだ。昔、歌人の西行法師が野辺に散らばる骨を集めて人間を造った。言葉を解さず、動きもぎこちなく、声も悪かったために、再び野辺に置き捨てた、とものの本には書いてある」 「それは、……失敗ですか?」 「まあ、失敗だが、西行が失敗したのは傀儡としての方法じゃあない。『反魂《はんごん》』だ」 「魂を……呼び戻す?」 「あるいは、入れる、ということだな。『誰の』と限定されていたわけではないから、執着も薄かったのかな。西行の知人は呪法に誤りがあると指摘したそうだがな」 「それで、……有王さんは、倉内さんが『反魂』を受けたと考えておられるわけですか?」 「いや……」  否定しながら、有王は煙草を切望していた。  指先が細かく膝を叩き、花映の視線を引き付ける。 「『反魂』を受けたのなら、もっと、……何ていうのかな。自分の意志を持っているように、しっかりと動くと思うんだ。だから……、どう考えるべきなのかに迷う……」  口もとをゆがめ、有王はつぶやいた。  窓の向こうを、町の明かりがかなりのスピードで流れすぎていく。  それは、暖気に曇った窓に映る、季節外れの蛍の群のようだった。     4 アップライト・アスペクト(UPRIGHT ASPECTS)  列車が走ると、枕木がガタガタと音を立てる。  がらんとした車内には喋っている人の声もなく、うっすらと闇に浮かぶ窓ごしの凍えた風景とは対照的に、穏やかな暖かさが感じられた。  崇は十紅子のはすむかいに座り、車窓に横顔を映しながら物思いに沈んでいる十紅子を見ている。  夕暮れの公園で由多と名乗る少年に何事か囁かれてからこっち、やみくもに岐阜へと来たがっていた十紅子とは別人のように落ち着いていた。  しかし、その落ち着きは、東京で田原坂に紹介された時の、宙に浮いたような頼りなさとは違う。  はっきりと目的を持ち、その目的を理解した上での落ち着きであった。  岐阜県のいさわ町に行きたい、と十紅子は崇にそう言った。  だから、崇は駅員にいさわ町までの順路を聞き、切符を買って同行してきたのだ。  東京からの行程は、名古屋までの新幹線で、それから、高山本線に乗り継ぐことになる。 「ねえ、十紅子さん」  崇が呼びかけると、少し間があり、十紅子は夢から覚めたばかりのようにゆっくりと顔を上げた。 「こんな夜遅くにさ、いさわ町なんかに行って、どうするわけ?」  いさわ町なんか、と言ったものの、崇はそこがどういう場所なのか、地図の上ではどこに位置するのかも全く知らない。  ただ、岐阜が長野よりも西側にあり、名古屋から日本海側につっこんだ場所にあることは、つい数時間前に学んだ。 「なんか、寒そうだし……。車も泊まる所もないからさ」 「わたしの……いえがある、わ」  十紅子が微笑んだ。 「十紅子さんの家? 十紅子さんって、岐阜の人なんだ」 「そう。わたしは、岐阜で生まれて、ぎふで育った……」  すうっと、十紅子の瞳の色が薄くなった。  列車内の照明のせいかもしれない。  灰色がかった青は、十紅子の顔をまるで別人のように遠く、近寄りがたく感じさせる。 「わたしは、……ぎふ市内の大学で……?」  十紅子が、左手でこめかみを押さえた。  わずかだが顔を歪め、目を細める。  うつむいた顔はますます白く、耐えがたい苦痛に耐えている。  そんな風だった。 「十紅子!?」 「……だいじょうぶ。苦しくはないわ。ただ、あたまの中が、すこしへんなだけ」 「でも……」  崇が中腰になって手を伸ばすと、十紅子がその手をぎゅっと握った。  途端に、いいようもない冷たさが、悪寒となって崇の手から背中へ、すごいスピードで這い上がってきた。  手を引きたかったが、それが出来なかった。  そんなことをしたら、氷でできている十紅子の体が溶けてしまうのではないか、そんな想いが頭をかすめた。 「……やさしい子」  十紅子が微笑む。  表情には影があったが、それはむしろ苦痛よりも苦悩とよぶべきものであった。 「わたしも、やさしくしてあげればよかった……」 「誰に?」 「……いろんな人に……」  十紅子の声が低くなり、やがて、俯いているのにも疲れた様子で、彼女は勢いよく顔を上げた。  言葉は人間のそれへと近付いていくが、動作はだんだんと人間から離れていくように見える。  首を上げた十紅子の動きは、ぐにゃりとしたゴムの人形のようで、かなり気味の悪いものだった。  しかし、崇は何も言わない。  十紅子の言葉がどんなに人間離れしていても、崇には、十紅子の存在そのものを否定してしまうことができなかったのだ。 「……あなたの名前を教えて?」 「高田崇。高二で、家族は母さんと姉ちゃん一人。それから、ええと……」 「ともだちは?」 「ガッコのダチなら、隆文って奴だな。他にも燿って奴がいて、……最近、忙しくてあんま、遊べないんだけどね」 「カナリア……ね」 「……なんで知ってんの?」  ほんの少し眉間にしわをよせ、崇は尋ねた。  カナリアを知っているのなら、十紅子も『綾瀬』を名乗る傍迷惑な連中の仲間かもしれないと思ったからだ。  しかし、十紅子は自身も金糸雀のように小首をかしげ、 「あなたが、言ったでしょう?」  と、逆に崇に問い返してきた。 「たぶん、あなたが言ったのよ、崇くん。はっきりはわからないけど、言葉がここにのこっているの」  自分の耳を指し、十紅子は小さく笑った。  そういえば、と自分の公園での発言を思い出し、崇は思わず顔を赤らめた。 「ちぇっ、聞こえてたのか」 「少しだけ……。でも、あのときは言えなかった言葉が、いまは言えるわ」 「なに?」 「カナリアだからともだちなんじゃなくて、ともだちがカナリアだっただけでしょう?」 「その通りなんだけどさ。十紅子さん、ちょっと遅ぇよ」  照れ隠しに、崇は笑った。 「それよりさ、岐阜の案内をしてよ。オレ、岐阜なんか、来たことないんだ」 「じゃあ、楽しい話をしましょうか。今、下呂という駅を通ったでしょう? ここは、林羅山っていう江戸時代の儒学者が、天下の三名湯に教えたという温泉地でね」 「ゲロって、変な名前……」 「そう? いい所なのよ。合掌村という所に、人形歌舞伎の小屋があって……。合掌村の人形歌舞伎は、一人で何体も……多い時は百体近い人形を動かすそうで……。からくり糸が落ちるまで、観客は人形から目を離すことができないと聞いたわ」 「糸が落ちるとどうなるの?」 「終演よ」  十紅子が淡々とした口調で言う。  崇は傍らに置いていたコートをひきよせ、無意識に膝にのせた。  さきほど、十紅子の手から伝わった冷たさが背中にとどまり、まだ体の芯が冷たく感じられたせいだ。 「もう少し先へ行くとね、小坂温泉郷。下島温泉とか、湯屋温泉、それから、御嶽山《おんたけさん》の七合目にもある濁河《にごり》温泉」 「御嶽山って、岐阜県なんだ?」 「木曽の御嶽山と言うから、長野県の方が通りがいいけれどね。本当は県境にあるの。標高3063メートルで、『王の嶽』ともよばれるわ」 「登ったことある?」 「一度だけね。登っている最中は、もう苦しくて苦しくて、わたしは、何を馬鹿なことをしているんだろうって思ったの」 「でも、降りる時は残念だった?」  小学校の時に所属していた子供会で、富士登山に駆り出された時のことを思い出し、崇はにっと口の端で笑った。  あの時は洋子の目も見えていたし、父もいたので三人で登った。  母は確か、足に怪我をしていて家に残ったと思う。  十年近くも前のことなのに、鮮明に覚えていることが不思議だった。  目を閉じなくても。頬にあたる霧の冷たさから、鼻腔に流れこんできた空気の味まで思い出せる。  苦痛はほどよく除外さていて、楽しかったことしか浮かばないのも不思議だ。 「残念だったわよ」  十紅子が、崇の望む答えを口にした。 「でも、膝が笑っちゃって、下りるほうが大変だったかもね」  二人が声を合わせて笑った。  十紅子はいつの間にか口調が変わっており、表情もずっと豊になっている。  語彙も増え、ともすれば崇の方が圧倒されるほどだった。 「この列車の終着駅の高山市はね、春と秋の高山祭りで有名なの。もちろん、古い町並や民芸品も知られているけれど、高山祭りの『屋台』と呼ばれる山車《だし》につくりつけられたカラクリ人形は、修理はできても再現はできないと言われるほど精巧なものよ」 「修理はできても、再現はできないって? もう、造れないってことか?」 「そうね。材料も技術もっていうことでしょうけれど、樋《とい》を通して遠隔操作する『離れからくり』は、本当にすばらしいもの。春は十二台、秋は十一台の屋台が出るわ。人形が動くのは、三番叟《さんばそう》と龍神台、石橋台《せっきょうだい》、布袋台の四台だけだけど」 「ふうん。……人形が踊ったり飛んだりするわけ?」 「そうよ。ブランコに乗ったり、芸をするわ。まるで、本当に生きた人間のようにね……」  がたん! と列車が大きく揺れ、それきり会話がとぎれた。  十紅子は再びうつむき、考えに沈む。  崇は息をつき、反対側の車窓から外を眺めた。  暗い暗い夜の風景が、壊れかけた幻灯のように、車窓からもれでる光に照らされながら流れすぎていく。  行方のわからない旅の終着が、この列車を降りた場所に存在するのかどうか、崇はまばたきをしながら考えた。  答えはきっと、十紅子だけが知っているのだ。  名古屋で新幹線を降りた有王たちは、駅前のレンタカー屋で四輪駆動のセダンを借りた。  営業時間は過ぎていたが、事前の連絡を考慮してくれたらしい。  貸し出しの手続きをしてくれた男性に簡単に道を開き、天候の状態なども聞いてから一行は出発した。  FAXにあった倉内十紅子の住所は、崇が電話で告げようとした行き先と一致しているはずだった。  岐阜県、いさわ町。  もよりの駅は飛騨古川駅になる。  列車に乗り、特急に乗り、特急ならば二時間強、普通ならば四時間弱はかかる距離である。 「すみませんけど、地図を見てくださいね」 「ああ、分かった」  田原坂がダッシュボードに置いた地図をとり、有王はそれを拳で軽く叩いた。 「花映さんは、当分は眠っていていいですよ」  それを聞くと、花映が眠くないよ、とぶつぶつ言った。  これからが本来の活動時間なのに、狭い車内でゆられることにうんざりしているらしい。  花映は倉内十紅子とは面識がない。彼女が『綾瀬』に関係しているかもしれないという憶測と危惧はあるが、それも確実なものではなかった。  高山本線と付かず離れず、右手を飛騨山脈、左手を両白山地に挟まれた谷間の街道を行くのは、思っていたほど困難なことではなかった。  名古屋駅を出てから、すぐに国道41号線に乗り、あとはひたすら進むのみだ。  道幅は広いし、交通量も少なく、時折、大型トラックとすれ違うことがあったが、それを除くとほぼ貸し切り状態で車を走らせることができた。  小牧市、犬山市を越え、愛知県から岐阜県に入るまで、思っていたほどの時間はかからなかった。  しかし、田原坂の運転は、先へ進むほど慎重になっていく。  路面は霜が反射してきらきらと光っているところもあったし、路肩の樹木も白く凍り付いていた。  一瞬だけライトに照らされて消える闇の向こうには、白く溶け残った雪が見えることもあった。 「有王さん」  道路と接するタイヤの細い音だけが支配していた車内に、田原坂の小さな声が響いたのは、かなり時間がたってからのことだった。  さすがに眠ってはいなかったが、考えに沈んでいた有王は、今、夢からの覚めたような心境になった。 「傀儡師というのは、人形呪術のエキスパート、とおっしゃいましたよね?」 「ああ、言った」 「それは、つまり、倉内さんが呪術の道具として造られた、という意味にとっていいんでしょうか?」  そんなことは、造った人間しか知らないことだ、と心の中では思ったが、それを口に出すことができなかった。  すでに傀儡であろうと目星をつけた有王にとって、倉内十紅子は『誰かの呪物《まじもの》』に他ならない。  しかし、田原坂と崇にとっては、『夜の街で出会った一人の人間』なのである。  人形とはよく言ったもので、おうおうにしては人は、その物のもつ形に目を奪われる。  そして、時には、心さえも心配されてしまうのだ。  田原坂たちの目が眩んでいるとは思わなかったが、彼らが誰かの呪術にはまっているのは歴然とした事実だった。  そういう相手に真っ向から言葉を投げても、耳から心まで辿り着く確率はおそろしく低い。 「傀儡は、人形《ひとがた》の一つの形式で、……人形自体は、もともと神をおろすために作られたものなんだ。目に見えない神意を人の形をした器に迎え入れて、その言葉を理解しようとした。つまり、人形は『空っぽの器』だ」 「……器、ですか?」 「そのうちに、逆に、病や悩みを自分の体から引き離し、連れていってくる存在にもなった。人の形をした紙に患部をすりつけたりする。だから『撫物』といい、人の力の及ばぬを助けるから、『償物《あがもの》』ともいう。人形は、神を宿らせる器であり、人の写し身であり、災いを連れ去る身代わりでもある。……草人形《くさびとがた》、天児《あまがつ》、這子《ほうこ》、……お雛さまなんかもな」 「お雛さまは知ってます。重陽《ちょうよう》の節句に仮雛をする土地も多いと聞きました」 「うん、あれも身代わりだ。……傀儡師も、もともとは、そういう風に人形を使っていた。つまり、神を降ろして祭事のために物語し、伝説や神話を伝播《でんば》させる。あるいは、災いを取り除くために。だが、そのうちに、人形は人を呪うためにも頻繁に使われるようになった。人の形をしているのだから、神よりも人の意識や悪夢、その生死を操るのもたやすいという考えだ」 「……たやすいですか?」 「外法《げほう》だよ。頼まれたってやらないね。だが、……倉内十紅子は、……逆なんだ」 「……私の部屋でも、そんなことをおっしゃってましたね」 「そうだったかな? まあ、とにかく、田原坂さんには一つだけ理解しておいてもらいたいんだが、……倉内十紅子さんという人物は、すでに亡くなっていて、この世にはいない」  田原坂は無言だったが、有王の言葉を無視しているという風ではない。 「不慮の事故でなくなった彼女を、おそらくは『綾瀬』の呪術者が再現した。人形の中心に、倉内十紅子の骨を使って……」 「骨、ですか? でも、言葉や動作は……」 「骨に、……彼女の記憶が残っている。人間は、身体《うつわ》と精神《なかみ》が揃っていてこそ、『人間』だ。ひっくり返せば、身体と精神が互いに支え合う状態で、一個の『人間』として成り立っているといえる。そこから生まれる感情や動作が、あってもなくても、だ。だから、その片方である身体だけになった彼女は、わずかな骨の記憶を頼りに動いて、喋っているすぎないんだ」  それが、『綾瀬』の罠でない限り。 「骨の……記憶……」 「多分、生前の彼女は、おそろしく冷静な女だったんだと思う。だから、自分の『死んだ』場所を目指すんだ。……もう一度、『終わり』を迎えるために」 「冷静ってことは自意識が強いってことですよ。いつも他人に譲って、引いて、そんな自分をつまらない人間だと思って後悔を繰り返して……」  それこそ冷静な口調で田原坂が言った。  彼の声は冷え冷えとしていたが、その根底に流れる感情のうねりは、有王にも感じ取れるほど熱いものをはらんでいる。 「倉内さんが人形でも、……やっぱり私は彼女を『物』としてとらえることができません。もう、考えるのはやめにします。考えたって、常に物事が私の思考を越える場所にあるんですから。今から先は出来ることに全力投球で行くことにします」 「まあ、……それがいいかもな」  有王は曖昧に言った。  それは、いつもの田原坂そのものだと思ったが、あえて口には出さないでおく。  確かに冷静で、他人に対して譲ったり、引いたりも田原坂の性格の一部だったが、夢中になると馬車馬のように勢いづくのも田原坂だ。  前回の悶着でも、田原坂はそうした性格をいかんなく発揮していた。 「ま、自分の性格って、見えないもんだからな」 「は?」 「なんでもないよ」  そういえば、そこが匠や魅伽につけいられる『スキ』かと考え、有王は少しだけ暗い気分になった。  自分には見えない自分の性格が、他人に知られていいように扱われている、というのも、あまり楽しい発見ではなかったからだ。  それきり、田原坂が口をつぐみ、有王も黙り込んだ。  流れ過ぎていく夜の風景は壊れた映写機の写す白黒のノイズに似て退屈だったが、それは日常の穏やかさかそのものともいえた。  どんなに心を騒がせても、周囲に広がる風景は『日常』の枠を越えない。  それは、有王たちにとっては大きな救いとなっていた。   終着駅の高山に着くと、真っ先にステップから飛び下りた崇が悲鳴に似た声で寒いとわめいた。  十紅子は数少ない乗客の視線を気にしつつ、ゆっくりとホームに足をついた。  全身の感覚がないから、気を弛めていると、ぐにゃりと足首が逆に曲がってしまいそうだったからだ。 「なあなあ、十紅子さん。行きたいのは、えっと、……飛騨古川駅、なんだろ!」  両手をコートのポケットにつっこみ、白い息を吐きながら崇が尋ねた。  鼻の頭を赤くして、いかにも寒そうに見える。 「そうよ。でも、この時間は、ここまでしか列車がこないの」  崇を見ることでしか寒気のほどを知ることができない十紅子は、薄く微笑んでその問いに答えた。  コートを着ていないせいなのか、背中を丸めた夫婦者と思しき二人が、怪訝そうな視線を投げ掛けて通り過ぎていく。 「どうすんのさ、十紅子さん?」 「タクシーに乗りましょう。なかったら、……わたしは歩いていくわ。崇くんは、どこかに泊まれる宿がないか、駅員さんに聞いてあげる」 「ふーん、でも、オレも一緒に行くよ」  足もとから這い上がる寒気を避けようと、爪先だったり踵《かかと》を立てたりしながら、崇が言った。  動作と同じく、ほんの近所のコンビニに買い物に行くつもりでいるような、軽い口調だった。 「無理よ、遠いわ」  笑うべきか、怒るべきか。  十紅子は空っぽの引き出しをひっくり返す心地で言った。  いや、心地などは、すでに十紅子の内にない。  何もない。  大量のデータに似た言葉と知識が、雑然と肉の内に折り重なっているのだけだ。  感覚はない。  感情もない。  何かが笑えと命じるから、会話の途中で微笑んでいたにすぎない。  あるのはただ、『かえりたい』という飢えに似た強い思いだけだった。  それこそが、この『何もない生』から解放される唯一の方法だと、十紅子の本能が囁き続けている。  痛覚がないから、自分の身体に対するいたわりも必要なく、寒さを避ける必要もない。  言葉は音の羅列となって体のどこかへ落ちていき、自分の口から出る言葉もまた、遠い場所から、さらに遠い場所へと繰り出される音の羅列でしかなかった。  十紅子の意識を支えているのは、繰り場所へと消えていく螺旋だった。  その深淵を覗き込むのはおそろしい。  しかし、そのおそろいしいという感情すら、何かのコピーにすぎない薄っぺらい一枚の紙のようで、内に抱えた冷たい混沌が、より強く、解放を望む十紅子の身体をかりたてるのだった。 「でも、オレは一緒に行くからね」  声を強めるでもなく、崇が繰り返した。  瞳はまっすぐに十紅子を捕らえ、わずかな迷いも見えない。  崇の強い感情が視線を通して十紅子の内に流れこみ、わずかだが螺旋の先を照らす明かりとなった。  人形は、人の形を模している。  それを動かすのは、やはり人の心に相違ない。  すでに闇にとらわれている十紅子の意思だけでは、最終の瞬間を再生するあの場所にたどりつくまでは持たないかもしれなかった。 「本当に一緒に行くのね?」  十紅子は尋ねた。  この少年を仮の主に仕立てて、目的の場所に至るための動力に利用しようとしている『自分』が『倉内十紅子』ではなく別の存在であるような気持ちになる。  しかし、その気持ちも完全な客観にすぎない。 「行くよ。約束じゃん」  崇が笑った。  それを鏡のように映して十紅子も微笑み、ゆるやかな足取りで改札をくぐって駅員室に顔をのぞかせた。 「すみません」 「はいはい、何ですか?」  人のよさそうな初老の駅員が顔を出す。  彼は両手にほうきとちりとりを持っていて、今からホームの掃除にでようという風情だった。 「いさわ町まで行きたいんですが、この時間でも来てくれるタクシーをご存じないですか?」 「ああ、いさわ町ね。……うーん」  駅員はちらりと駅舎の外へ視線を走らせ、駅前に止まっていたはずのタクシーが残らず消えていることを確かめる。  もちろん、そのことは十紅子たちも確認済みだった。  タクシーを使わねば帰宅できない地元の人間が、スプリンター顔負けのダッシュ力でタクシーに乗り込んだだろうことは、考えるまでもないことなのだ。 「お客さんたち、いさわ町に行くの?」 「そうです」  駅員は十紅子のいでたちに奇妙な顔をしたが、何も問うことはしなかった。  小さくともたくさんの観光客が出入りする駅である。  個人の嗜好を尊重しよう、と駅員の瞳が無言で十紅子に告げていた。 「うーん、……ちょっと待ってよ。私は古川まで帰りますけどね。うん、古川からなら、知り合いのタクシー屋に頼めるし、電話してあげますよ。いさわ町まで送ってあげられればいいんだけど、あそこの山道は素人には怖いからね」  駅員はほうきを置き、代わりに受話器をとった。 「いさわ町のどの辺かな?」 「沢之衣のふもとまで、……お願いしたいのですけれど」  十紅子が言うと、駅員はぽかんとしたような顔付きになった。  よく分からない冗談を聞いて、どんな反応を示すべきか迷っているような顔だった。 「沢之衣は山裾でしょう?……あのへんは、家はないんだけどもね」 「知ってます」  気の毒そうに微笑み、十紅子は澱みなく言った。 「わたし、本当は堤谷の者なんですけど、どうしても、日の出までに沢之衣に行かなくてはならないんです」 「どうして?」 「朝日を見るんです」 「朝日って、……雪もつもってるし、危ないよ。そんな格好で……。堤谷に家があるんなら、そっちに帰ってから、改めて出直したほうが……」  駅員が言い募る。  十紅子はやはり人という存在が『世界』の外側にあるのだ、と理解した。  暗い螺旋が近付いてきて、十紅子のなけなしの意識を飲みこもうとする。 「いいよ、歩くから!」  その時、崇の声が、十紅子の意識を夜の駅舎へと引き戻した。 「もう、いいじゃん。歩こうぜ、十紅子さん」 「ちょ、ちょっと、坊や。それは無茶だよ。ここからいさわ町まで歩いたら、朝日どころか昼になるよ。第一、雪の中で迷ったら……」 「でも、オレらはそこに行かなきゃならないんだ。おっさんから見たら、……馬鹿みたいかもしれないけど、オレらには、オレらの理由がちゃんとあるんだ」 「そうね、歩きましょうか……」  十紅子はうなずいた。  崇の潤んだ瞳が、まっすぐに十紅子へと向けられていたからだ。  静かな力が十紅子の空っぽの身体を満たしていく。 「ちょっと待ちなさいよ! 分かったから、とりあえず、いさわ町まではタクシーを頼んであげるから。……そこから先は、運転手と相談すればいいから」 「ありがとう、おっさん!」  根負けした駅員に、にっ、といたずらっぽく崇が笑った。  駅員は呆れた様子で息をつき、通話口に何かを話しかけた後に電話を切る。 「掃除をして、駅舎の電気を消すから、ちょっと待ってて下さい。寒かったら、……まあ規則違反だけど、中のストーブにあたってもいいよ」  駅員は帽子をかぶりなおし、ほうきとちりとりを手に、ホームへ出ていった。 「ラッキーだね、十紅子さん」  笑い顔のまま、崇が左手の親指を立てて見せた。  その瞬間に、十紅子は自分が新しい糸につながれたことを知る。  しかし、その糸は『自分』を支配する糸ではない。 『自分』では保ちきれない意識を保つ、補助のための糸だ。 『傀儡』『あやつり人形』と十紅子の耳に囁いた声がゆるやかに糸を切り、十紅子は不自由と言う名の自由を得た。  かりそめの、そして、つかの間の自由を。  だが、それを保つためにも糸がいる。  嬉しいのか、悲しいのか、やはり十紅子には分からなかった。  どこからかコピーしてきたような感情は、つねに樹木をゆする風のように十紅子の内を駆け抜けていった。 「田原坂さん、休憩したらどうだ?」  長い沈黙の後、有王は田原坂に提案した。 「……ええ、そうですね。下呂に入ったら、少し止まらせてもらいます」  有王の勧めに、田原坂は素直に頷いた。  四輪駆動車は滑りにくいが、絶対に滑らない保証はない。  初めての道を、夜間、路面の凍結を気にしながら走るというのは、考えていたよりも何倍もの注意力を必要とする。 「あそこに自販機がある」 「はい、ちょっと休ませてもらいます」  路肩の、ひときわ明るい自動販売機が並んだ場所に車をとめ、田原坂と有王は、いったん車外へ出た。  途端に耳がちぎれるほどの寒気に包まれたが、暖房と疲労でほてった体には心地好く感じられる。 「悪いな、代わってやれなくて」 「いいですよ。有王さんは、この後に働かなくちゃなりませんからね」  田原坂が、笑って嫌なことを言った。  手足を伸ばしたり、体の節々を動かしたり、歩いたりしていると、徐々に体が冷えてきた。  頬にあたる風は厳しく、体の芯までゆっくりと凍えさせていく。 「……崇くんたち、……大丈夫でしょうか?」 「そうだな。……倉内十紅子はともかく、崇は生身だからな」  この寒さでは、下手すると風邪どころではすまない事態になっているかもしれない。  田原坂が身をふるわせて、車から持ち出したコートを羽織った。 「ちっ……、戻ってこいって言うべきだったな」  有王はボヤいた。  しかし、戻れと言ったところで、崇がおとなしく十紅子を見捨てて戻ったとも思えない。  彼は、あの燿を拾って自宅に連れ帰り、花映との再会が果たされるまで保護していた人物なのだ。  ……もちろん、多少どころではない問題もいろいろあったが、それが全て崇の責任というわけでもない。 「崇くんは、きっと、……倉内さんと一緒に行くのを止めなかったと思いますよ」  田原坂が言った。 「崇くんは、……優しいですから」  見ず知らずの他人にむける鋭さが、相手を知った途端に柔らかい羽毛のような感情に変わってしまう。  それが弱さか優しさかは分からないが、崇にそうした部分があることは、有王も薄々感じていた。  困っている相手に同調すると、自分の生命の危険すら勘定に入れず、まあ、いいやと言って譲ってしまう柔軟性。  それは、長所にも短所にも、たやすく変じる危うい性質だった。 「もし、……崇くんが……」  田原坂が口を開き掛けた時、車から出てきた花映が低いうなりごえを発した。  自販機の明かりが牙に反射する。  有王は半歩前へ跳ねて、田原坂をそっと車の方へ押しやった。 「花映! 田原坂さんを……」 「イラッシャイマセ!!」  緊迫した有王の声を、とぼけた声がさえぎった。  硬質で角張った喋り声は、どう聞いても人間の者ではない。 「田原坂さん! 車に戻れ!」  有王は叫んだ。  言葉も行動も、脳を通さず耳から直接筋肉へと働きかけた。  この聞き覚えのある独特な声は、魔女の使い魔の声に他ならない。 「すぐ発進して! 休憩はあとあと!」  あたふたと自販機に背中を向け、先程とは違った緊張感をもって有王は命ずる。  花映はあいかわらずうなっていたが、さきほどの鋭い響きは消えていた。 「どうしたんです、いったい?」 「おばんでぇーす!!」  甲高い声が凍える夜空に突きささり、砕けてばらばらと地面に落ちた。  呆気にとられていた田原坂が、自販機の陰から現れた黒い人影を見て、さらに茫然としたのが、有王にはよく分かった。  黒いロングケープ。  黒い手袋。  黒いアンクルブーツ。  頭にはトークと呼ばれるタンバリン型の婦人帽をかぶり、黒いヴェールを豊かな巻き毛に垂らしている、黒ずくめの女。  切れ長の黒い瞳と真っ赤な唇が、白い顔の中に並んで微笑を形づくっていた。  言葉で形容すれば、花映たちが伯母である真実夜《まみや》とかなり近しいが、雰囲気は百八十度も違う。  夜の格好を装い、太陽のごとき存在感をもった女が、自動販売機の明かりを背にして立っている。  田原坂が、ああ! と手を打って微笑んだ。 「相良……魅伽さんですか?」 「当ったりー!!」  ほほほほほ……、と甲高い声で笑い、魅伽はすたすたと車に近付いてきた。  両耳につけられた涙形のイヤリングがきらきらと光り、左肩にがっしりと爪をたてた大型の鳥が、有王を一瞥して嘲笑するかのように喉を鳴らした。 「はじめまして、田原坂先生」  完璧までに有王を無視し、魅伽はつかつかと田原坂に歩み寄った。  そして、うふふ、と笑って両手を左胸の前で合わせ、小さく膝をゆるめる。  花映ほどではないにせよ、彼女もかなり背が高い。 「私、先生のこと、存じましてよ」 「何をですか?」  呆気にとられてはいたが、田原坂はたじろいではいなかった。  失礼でない程度にやわらかく魅伽を観察し、その言葉に真面目な問いを返す。  その冷静さには、有王も密かに舌を巻いた。 「まあ、何をですって? それはもう、お年からご職業から、家族構成からね。妹さんがいらっしゃるでしょ? 五つ違いですわね。それから、ご実家では『ランチ』という名前のプードルを飼っていらっしゃる」 「正解ですね」 「色はアプリコット。珍しいわ」  それから魅伽はついと手を伸ばし、真っ赤な爪先で田原坂のネクタイに触れた。 「まあ、可愛いこと。これは、妹さんのプレゼントね。あなたのもっていらっしゃるファンシーな小物たちは、みんな妹さんのプレゼントですの? よくお似合いだわ」 「まあ、……そうですね。誉めてくださって、ありがとうございます」 「魅伽!!」  有王は怒鳴った。  魅伽が姿を見せただけで、事態の進行方向が百八十度も変わってしまった気がする。 「なによ」  ふいに声色を変え、ドスのきいた声で応えて、魅伽が有王へと向きなおった。  それこそ、西洋のおとぎ話の魔女のごとき変貌ぶりである。 「あんた、なんで私を見るなり、逃げようとするわけ? 学生の時、酔って図書館の屋根から落ちそうになった時、助けてあげたのは誰だったかしらね。あんたが卒業論文の原稿を交差点の真ん中でバラまいた時……」 「もういい! わかった!……悪かったよ」 「反省してないわ」 「謝ってるだろ!」 「誠意がないと言ってんのよ」 「誠意がないのは、どっちだよ!? あんな訳のわかんねえ仕事を押し付けたまま消えやがって! こっちだってな、どんだけおまえの尻拭いをさせられたと……」 「いやだ、尻拭いだなんて」  ふん、と鼻を鳴らして会話を打ち切り、魅伽が花映へと向き直った。 「こんばんは、お嬢さん」 「……こんばんは」  花映は、多少警戒心をもった目で魅伽を眺めていたが、しばらくの沈黙の後、大きな吐息と共に吐き出された魅伽の感嘆の言葉が、それすら粉々に粉砕した。 「びっじんねー。いいなー、有王。こんな奇麗な子と一緒に暮らしてんのねー。うらやましーわ。よっ、色男!」  花映が顔をしかめた。 「……田原坂さん、逃げよーぜ……」  有王は、砕けそうな腰をなんとか気力でもちこえさせ、低い声で田原坂に懇願する。  しかし、田原坂はうなずくことも断ることも、すぐに決断しかねている様子だった。  腕ききの呪禁師と一般の腕前をもつ女占者の問答は、どう考えても女占者に軍配が上がっていたからだろう。 「下呂温泉にいたんだわ」  ちゃっかり後部座席に乗り込んで、魅伽が言った。  ケープもトークも外してしまった彼女は、別人かと思うほど若く、普通に見える。  無論、顔の造りそのものは変わってないが、年は五つ六つ若く見えるのだから、魔女というのもあながち誇張とも思われない。 「はい、有王にお土産ね」  魅伽が、ケープの中に隠していた小振りのボストンバッグから、菓子を一つ取り出して有王に渡した。 「何だ、これ?」  うさんくさげに受けとった菓子の包みには、達筆な文字で『下呂の香り』と印刷されている。 「何て名前の菓子だよ」 「あら、美味しいのよ」 「旅館のお茶受けだろ?」  子供の駄賃でもあるまいに、今時、小さな菓子の一つでごまかされるものではない。 「それにしても、よく私たちの車だって分かりましたね。こんなに寒いのに、ずっとあそこで待ってらしたんですか?」  視線は外さず道路を見つめたまま、田原坂が尋ねた。  魅伽に文句を言われて座席を前に引かされた有王は、狭くて、体が痛くて仕方がない。 「この魔女が、ずっとあんな寒い所に立ってるわけがないだろう。ほんの数分前にポンと来て、あとはもう……」 「魔女ってなによ」  どかっ! と魅伽の足がシートの背を蹴った。  震動はともかく、ダッシュボードに触れた膝を強く打ち、有王は身動《みじろ》ぎもできないほどの痛みを味わった。  魅伽に背中を向けたのは、一生の不覚だったと後悔にみまわれる。 「それにしても、大変でしたねえ。お店の入っていたビルが、爆破されたりしたそうで」  有王の苦痛を知らぬでもあるまいが、田原坂はどこまでも和やかだった。  初対面の魅伽に飼い犬の種類まで当てられたクセに、『すごい』ですんでしまっているらしいから大物だ。 「あれはねえ。……とんでもないわよ、まったく」  田原坂の言葉を受けて、魅伽が深々とため息をついた。  占いの小道具、家具、仕事場、パソコンとデータ。  魅伽の頭にある打算を思い、有王は心の中で密かに毒づいてみる。 「さすがに、あんなことをしてくれるとは思わなかったわ。私、隣の探偵さんに天丼のお金を貸してたんだけど。……理由がはっきりするまで、返してって言えなくなるのが残念だわねえ」  そういえば、魅伽の仕事場の隣は探偵事務所だったな、と有王は並んでいた看板の名前を思い出していた。  確か、逢坂という名前だったように記憶している。 「別に、……あれは、魅伽のせいじゃないんだろ? だったら、天丼のお金ぐらいは……」 「そうなの。でも、このまんまだと。調査費を踏み倒せるかもしれないな、とも思うのよね。どっちが得かしら?」 「調査費?」 「大野上勝の身辺調査」  なにっ!? と有王が叫ぶのと、田原坂が奇妙な声を上げるのは同時だった。 「あのっ! 青山の青いタイルのマンションの!?」 「あら? 田原坂センセ、ご存じ?」  知ってますよ、と田原坂は驚嘆を隠しきれないといった口調で答える。 「私を殴ったお客さんの、上の階の方です。匠さんが話しておられた時、おんなじ姓だと思ったんですが……」 「ああ、例の水漏れか」  なんだ、やっぱり階下に洩れていたんじゃないか、と有王は他人事のように思った。  それと当時に、現状に対する強い不満も感じる。  車中の狭々しさではない。  まるで『予定調和』をきどった、奇妙なキャスティングのせいである。  魅伽を通して有王に接触してきた大野上という男。  崇のアパートの側にいた倉内十紅子。  そして、二点を結ぶ立場にたった田原坂。  中央で糸を操っているのは、『綾瀬』の由多に間違いない。  しかし、やり方としてはあまり上手くない、と思うし、ここに匠がいたら『馬鹿』と言うに決まっている。  下手くそなやり方だ、と。  もっとも、匠は『予定調和』という言葉や『運命』という単語が大嫌いなので、その批評にも私見以外のものは存在しないのだが。  その場所に立ち、右に行くのも左に行くのも個人の意見だ、というのが、匠の持論であり、主張だったが、それは、すべての事象が個人の責任というわけでなはい。  右に行けば橋が落ちているかもしれないし、左に行けば溝にはまるかもしれない。  落ちた橋や蓋のとれた側溝は、別に立ち往生したり怪我をした本人のみの責任にはならないから、匠の主張もあやしいものだ、と有王は常々反論を目論んでいる。  けれど、目論んでいるだけで、実際に正面からの反論は、まだ一度も口にしていない。 「魅伽、その調査書を見せてくれないか?」 「いいわよ」  案外素直に書類を取り出した魅伽は、白茶の封筒に入ったそれを、後ろからかぶさるようにして、ぽんと有王の膝に投げ出した。 「おもしろい読み物だったわ」 「おもしろいってのは、何がどうおもしろいんだ?」 「見てよ」  シートに両腕を押し付けてもたれかかり、魅伽は有王の引き出した書類に赤い爪を押し付けた。 「大野上建設・代表取締役」 「跡取り息子か何かだろう」  魅伽の好みそうな客だ、という言葉を無理に飲み込み、とりあえず無難な意見を述べておく。 「あのマンションはね、私の知人も入ってるんだわ。もっと下の階だけど、あそこ、目茶苦茶|高価《たか》いのよ。その最上階に住んでいる『マンションのオーナーの息子』の評価は、まあ、思ったほど悪くはないらしいわね」 「ふーん、礼儀正しい好青年か?」 『辻』にやってきた大野上のふるまいを思い出し、有王は言った。 「そんな感じだわ。だけど、半年前から人が違っちゃったって話なの。おまけに騒音、水漏れ、ああいうマンションの防音はしっかり造ってあるからね。象が暴れてるんじゃないか、って階下の住人がこぞって警察を呼びかけたくらい」 「詳しいな」  井戸端会議できいてきたのか、と口に出さず、頭の中でつぶやいてみる。 「マンションのロビーで、大野上勝本人と擦れ違ったことがあるからね。彼が仕事で訪ねてきた時にピンときたの」 「これは金になる、ってか?」 「……いやね。人を守銭奴みたいに」 「事実だろ」 「勤勉と言ってちょうだいよ。そこで、まあ、隣の逢坂くんにちょこっとね」 「なるほど、ちょこっとねえ」  ふうん、と呆れ調子の吐息をもらし、有王はすばやく書類に視線を走らせた。  名前や住所はともかくとして、誕生日、趣味から家族構成、出身の幼稚園、小学校、中学校と続き、趣味や親しい友人、それに、その友人の経歴や、かつて付き合っていた女性たちの経歴までが記されている。 「順風満帆《じゅんぷうまんぱん》だな」  名前の通った学校と、それなりの職についた友人たち。  立派すぎる肩書きをつけて、父親の経営する会社への就職。 「人当たり良し、性格は温厚」 「ご立派だ」  しかし、書面に比べられているのは、大野上が歩いてきた道順にすぎず、他人が見た外側にすぎない。  それが情報というものだが、今の有王にはあまり役に立つものとは思われなかった。 「魅伽、大野上の性格とやらはもういいから、彼と倉内十紅子の接点はどのへんにあるのか、教えてくれないか?」 「そうくると思ったわ」  魅伽は有王の手にしていた書類を、後ろから手を差し入れてペラペラとめくった。 「このへんだったんだけど……、ああ、これよ。ダム工事」 「ダム? それは、大野上建設の仕事か?」 「そうよ。倉内十紅子のいた町には、富山湾に抜ける川の支流があるの。そこを塞ぎ止めて、ダムを造る計画があってね。あの辺は、スキー場も多いし、山間のリゾート地としての開発計画もあるみたい。本線沿いは昔ながらの建物や工芸で名高いけれど、ちょっと外れたら、やっぱり別の観光資源を考えなくてはいけない、……というご意見の人もいたんでしょうね」 「それで、ダムか」 「でも、開発派がいれば、自然保護派もいる、ってのが、昨今の風潮じゃない。山間部も、ほら、そこにしか生息できない動物とか鳥とか魚とかいるしね」  ぴくん、と花映の眉が動いた。  それまで、全く無関心を装っていた彼女の、それはわずかな反応だった。 「倉内十紅子は?」 「自然保護派よ。……っていうか、推進派は少数ね。町長とか、そのとりまきくらいで、後の人たちは今のままでいいっていう意見が大半だったみたい」 「だったら、別に問題はないでしょう?」 「まあねえ。でも、ダム工事なんか請け負ったら儲かるんじゃない? 推進派にも思うところがあったらしいし、裏で随分といろいろ動いたらしいわよ」 「何がです?」 「決まってるわ。お金よ、お金!」  魅伽が突然に声を高め、有王に大きく息をつかせた。 「それで、ダム工事はどうなったんだ?」 「なんか、無理やりに話が進んでることもあって、現場の測量や資材の運び込みはされてたみたいだけど……」 「中止になったんだな」 「まあ、そういうことよね」  魅伽が肩をすくめた。 「計画は頓挫して、町長はリコール、木は切られっぱなし、資材置きっぱなしだって、いさわ町から下呂に仲居に来てるおばさんが教えてくれたわよ」 「……大野上は、本当にダム建設に絡んで、倉内十紅子を知り合ったのかな?」 「そうじゃないんですか? 何か、以前に接触があったんなら、それに書いてあるはずだと思いますけど。……大きな声ではいえませんけど、私たちも依頼人の身辺調査をすることがありますからね。そういう調査書って、けっこう驚くような細かいことまで調べてあるものなんです」 「だが、絶対に完璧ってわけでもない。そもそも、本人の意識や思惑という部分が完全に欠落している物だしな」 「なににこだわってるのよ?」 「別に、こだわってはいないさ。ただ、倉内十紅子はまだ二十二歳だ。反対派の表に出るのは、どっちかっていうと父親とか母親とか、年配組だと思うんだ。会合ぐらいは出たかもしれないが、ダム建設の受注会社の役員と、……個人的に知り合いになったりするもんかと思ってな」 「あいかわらず、考え方がジジィくさい!」  魅伽が有王の疑問を一蹴した。 「若かろうが、女だろうが、本当にその土地を愛してたら、どこにだってネジこむくらいのことはするわよ!!」 「ま……おまえはな」 「うるさいわね。人生はアクションよ! それよりも、見なさい。三年前にね、大野上は岐阜市内に一年住んで、個人の住宅の建築に関わっているわ」 「ああ」 「その時のガールフレンドに、広山敦子って娘がいるでしょ? この娘、倉内十紅子が通っていた女子短大の同級生なんだわ」 「倉内十紅子の友達か?」 「知り合い程度、って本人は言ったわよ。だけど、同期生の広山敦子を介して知り合ったがこっそり付き合ってたかどうかは分かんないわね。占ってもいいけど、……こういうのは面倒くさいわ」 「こっそり、か」 「でも、倉内十紅子が有王みたいにレトロな感覚の人間なら、友達の彼氏とどうこうなるなんてトンデモナイとか。あるいは、単に好みじゃなかったとか。付き合ってても別れちゃったとかねえ。そこらへんは、もう個人のドラマなんで、他人には憶測しかできないわね」 「そうだな、憶測しかないよな」  しかし、それならば、なぜ大野上は彼女を傀儡にしたのだろうか? 『愛している』と大野上は言ったが、有王には『憎んでいる』としか思えない。  傀儡はおのれの言葉をもたないが、主の命じた言葉を繰り返すことはできる。  しかし、多少大野上の影響力から解放されていたとしても、田原坂に名を問われた十紅子は、自らの名を名乗ったという。  それこそが、十紅子の体を保っている『核』の部分に倉内十紅子本人の体を造っていたパーツが使われている証拠だ、と有王は結論づけた。  おそらくは、骨だ、と。  ならば、大野上は十紅子の死に深く関わっているか、その死後に死体を盗み出した可能性がある。  人間の死体を処理し、核となる骨を手にするために、彼は、普通の人間では耐えられないような外法の儀式に立ち会ったはずだった。  そこまでして大野上が十紅子を傀儡にしても、それこそが計算違いという他ない。  何故なら、傀儡は人間ではないからだ。  魂も気持ちもなにもかも、傀儡にはない。  あるのは、器としての肉体と大きな大きな空洞だけだ。  その空洞が失われた記憶だけで満たされるなら、それはたとえようもない苦痛ではないか。  後悔も恐怖も悲しみも、人はその痛みに耐え、いつかは忘れなくてはならない生き物なのだから。  有王は左手で顔を覆った。  気が滅入ってしかたがなかった。  人形にしても、愛する相手を側に置きたい気持ちは分かる。  分かるが、それに伴う苦痛には、ほとんど全ての人間は耐えられないだろう。  どろ沼に足をとられるように、大野上にはもはや、沈んでいくほか道がない。  大野上が格別に愚かというわけではなく、その事実がますます有王を滅入らせた。 「……それで、ダム工事中止の理由は、不正の露顕か?」  思考をきり換えようと、有王は話を最初に戻した。 「違うわね。……多分、倉内十紅子ちゃんのことが原因だと思うわよ。だって、仮にも人一人が消えたんだから」  有王の心の内を知ってか知らずか、魅伽がさらりと答えてくれた。 「ですが、町の人たちは、倉内さんの失踪を、大野上建設とは関連づけて考えていませんよね。どうしてです?」 「どうしてかしらねぇ」  田原坂の問いに同意したものの、魅伽はその理由に対する意見は口にしない。  ただ、ぽろりと赤い唇からつむぎだされた言葉が、彼女のこの一連の出来事に対する魅伽の感情を有王に知らしめた。 「でも、……遺体は見付からない。いえ、生きているのか、死んでいるのかも分からない。十紅子ちゃんのご両親は、きっと、……それこそ、死ぬほど心配なさっているでしょうね」     5 リバースド・アスペクト(REVERSED ASPECTS)  高山駅の駅員は、約束通り崇たちを飛騨古川の駅前まで送ってくれた。  人気のない静まりかえった駅前には、すでに一台の白いタクシーがとまっている。  駅員のシルバーのワゴンが近付くと、運転手が降りてきて手を上げた。 「それじゃあ、気をつけてお行きなさいよ」 「どうも、ありがとうございました」 「ありがとう……ごさいました」  崇と十紅子が頭を下げると、駅員も軽く会釈を返した。  ワゴンから降りた二人を窓を開けて見送り、タクシーの横に立っている運転手に、頼むよ、と声をかける。  そして、小さくクラクションを鳴らし、凍った夜道を遠ざかって行った。  ワゴンから降りると、周囲の暗さも相俟《あいま》って、寒さが一段と厳しく感じられる。  駅員の乗ったワゴンを見送り、街灯の薄い光を頼りにタクシーに近付くと、運転手は無言のまま後部座席のドアを開けた。  深夜、知人から頼まれた客に接するのに、しっかりと制服を着込んだ運転手は、遠目には人形館に飾られているロウのように見えた。 「……だめ」  ふいに十紅子が足をとめ、緊張した声でささやく。  崇は、何故、十紅子がそんな反応を示したのか分からず、早くタクシーに乗り込みたいと思っていた。  凍った道路と路傍に残った雪が、夜の静寂のなかにほのかな光を放っている。  頬にあたる空気は風がなくとも冷たく感じられ、吐く息の白さで視界が曇るほどだった。 「はやく、タクシーに乗ろうぜ」  早く乗れば、その分早く降りなくてはならないのだが、そんなことは今は考えていられない。  しかし、はやる崇の肩を、ぐいと十紅子が押さえ付けた。 「だめ。……あの人は、ちがう」  すごい力だった。  崇は痛みに顔をしかめ、首を巡らせて十紅子を見る。 「何が違うんだよ?」 「……人間、じゃない……」  え! と崇が運転手を見るのと、十紅子の言葉を聞いた運転手がにやり、と笑うのは、ほぼ同時だった。  その顔がどこかのっぺりとした印象に変わり、耳や鼻が落ち、顔に斜めの亀裂が走る。  ずっ、と小さな音を立て、運転手の顔の左半分が、その体から滑り落ちた。 「うわあっ!!」  落ちた顔は、地面に叩き付けられ粉々に砕け散る。  それと同時にどさどさと崩れ落ちた運転手の体が、街灯の下にほの白い本性を晒す。  それは、人一人分の体積をもった、汚れた一山の雪だった。 「……何だよ、これ!? まさか、人間……!?」  十紅子が、崇の肩を掴んでいた手をそっと離した。  いつの間にか、運転手の傍らに止まっていたはずのタクシーも消えている。 「大丈夫。雪が雪に戻っただけだわ」  母親が幼い子供をなだめるように、十紅子が優しい口調で言った。  けれども、その表情に優しさはなく、何か、自分の内なる感情と戦っている、そんな雰囲気が感じられる。 「これで、歩くしかなくなったわね……」 「いいよ。歩くよ。最初っからその予定だろ。さあ、行こうぜ」  崇は、半ば叫ぶような声で十紅子に言った。  タクシーの暖房は惜しかったが、なくなってしまったものは仕方ない。  今さら十紅子と離れるつもりはないが、なんとか勇気を振り絞らないと負けてしまいそうな恐怖が胸に張り付いていた。  人間が崩れて雪になる。  ここには、匠も有王もいないのに。 「行こう、十紅子さん」  崇は十紅子の腕をとり、方向もわからないままに引っ張った。  十紅子がわずかに微笑み、そっちは、逆よ、と崇に告げる。 「なんだよ、ちゃんと案内してくれよ」  照れ隠しに崇が怒ると、十紅子はごめんなさい、と小さな声で詫びてくれた。  十紅子の先導で歩き始めた崇は、しばらくも行かないうちに、後ろから近付いてくる車のライトに気付いた。  細い道で車の邪魔にならないようにと端によったが、当然、通り過ぎていくものと思っていたライトは、崇と十紅子の真横に止まった。  深夜、知らない場所で、知らない相手の車が横付けされるのは、気持ちのよいものではない。  崇は一瞬身構え、それから、有王たちかと思い、ドアが開いた瞬間、あっ! と声を上げて立ちすくんだ。 「こんばんは、崇くん」  にこやかに笑いながら降りてきたのは、夕方、公園で会った由多という少年だった。  運転席からは、背の高いがっしりとした男が降りてきたが、ライトを背にしているので顔が見えない。 「こんばんは、十紅子さん。……そんな顔、しないでよ」  由多が笑った。  崇は、かばうように十紅子の前に出ながら、そっと彼女の表情を確かめる。  十紅子は今にも泣きだしそうな、叫びたいのを我慢しているような、ひどく複雑な表情でライトの前の男を見ていた。 「勝さんが、どうしても十紅子さんに逢いたいっていうからさ」  ねえ? と甘えた声で、由多が大野上に同意を求めた。  大野上は何も言わなかったが、由多は軽く肩をすくめただけで、特には強く返答を求めない。  大きな黒い瞳をきらきらと輝かせ面白い見世物に夢中になっている子供のように、ただ大野上と十紅子の二人を見比べている。  崇は、少しだけ混乱していた。 『辻』に有王を訪ねてきた男が、どうして『綾瀬』を名乗る由多と一緒に現れたのか? 「……行きましょう」  十紅子が、先ほどの崇と同じ台詞を口にした。  くるりと車に背を向けて歩き出す十紅子を、崇は訳がわからないままに追いかける。  足の速さに比例して、車のライトはすぐに後方に遠ざかり、その無言の騒乱に似た光の範囲から逃れると、安堵に似た空気が胸に生じた。  まだ、彼らが動く気配もない。 「……十紅子」  その時、大野上の声が十紅子を呼んだ。  十紅子が、ぴたりと足を止めた。  崇には、どうしてその場から去りたがっている十紅子がとまるのか、その理由がわからなかったが、彼女が崇に振り向けた瞳には、罠にとらわれた獣のごとき必死の表情が浮かんでいた。 「十紅子、こっちにおいで」  響きのいいバリトンで、大野上が命じた、ぎりぎりと音を立てるほどの抗いを見せつつ、十紅子がゆっくりと向きを変える。  崇をとらえる青灰色の瞳は無言の抵抗を示しているのに、体は全く別の動きを見せている。 『助けて!』と十紅子の無言の唇から悲鳴がほとばしった。  その顔が、熊へと変化した士郎の首を抱き締めた燿の表情を重なった。  意志に反する行動の与える苦痛と、それしか選ぶべき道のない悲しみ。  崇は、凶暴な唸り声を上げていた。  ゆるやかに足を運ぶ十紅子を追い抜き、ライトの前の大野上の腹部に全身で突きをかます。  無防備に立っていた大野上は、小柄な崇の勢いにあっさりと負け、音をたてて車のボンネットにひっくり返った。  あまりの手応えのなさに、崇は自分が空振ったのではないか、と思ったほどだった。  大野上が倒れると、十紅子は糸の切れた人形のように、その場にペタリと座り込む。  崇は持ち前の身軽さで、すぐに身をひるがえした。 「逃げよう! 早く!」  地面に座った十紅子の腕をとる。  十紅子の腕は、冷たく、軽く、崇の手の中で力なく踊っている。 「早く! 早くしないと……!」  由多が動く。  崇には、それが怖かった。  あの菊名翁の、そして、キリエの能力、容赦のない攻撃。  現実ばなれした呪術戦を思い出すと、とにかくこの場から逃げなくてはならないという思いが、強く崇を支配する。 「立ってよ! お願いだから!」  悲鳴に近い懇願の中で、すうっ、と由多の水色のコートが動いたような気がした。  しかし、それは勘違いだとすぐ分かる。  動いていたのは、由多ではなく崇の方だった。  いつ動いたのか、十紅子の小脇に抱えられ、崇は宙を飛んでいた。  十紅子はとても人間にはできない動きで民家の屋根に飛び上がり、地上の由多たちには一瞥もくれずに凍った屋根を飛び歩いた。 「十紅子さん!?」 「すこしだけ、がまんして」  押し殺した声でささやくと、十紅子は足場の悪い屋根の上をまるで猫のように身軽に走る。  駅舎も大野上の車のライトも遠くに消え、夜空に浮かんだ月だけが異様なほど近くに感じられる。  青ざめた、丸い、大きな冬の月。  屋根から眺める夜の世界は、現実にはありえないほどに美しい幻想的な風景だった。  しかし、同時にその衝撃も、現実ばなれして酷いものだった。  十紅子の腕が腹にくいこみ吐きそうで仕方がない。  一飛びごとに腹にかかる自分の体重分の衝撃に、崇は絶え間なく、うめき声を上げ続けた。  そのうちに、崇を抱えた十紅子が屋根の端から道へと飛び下りる。  すっかり顔色を悪くしていた崇をそっと地面へ下ろし、大丈夫かと問うてきた。 「げーっ、気持ち悪い……。吐く。吐きそう。おえっ」  咳き込みながら地面に膝をつき、崇はしばらく呻いていた。  地面についた手は冷たかったが、そんなことは問題にならないほど気分が悪かった。  あまりに気分が悪かったので、人間離れした十紅子の所業が気にならなかったほどだ。 「はあ、もお、オレ死ぬかも……」  のろのろと力なく立ちあがった崇は、しかし、十紅子の左腕を見て、すぐに甲高い声を上げる。  姿勢を正し、飛び付くようにその腕をとると、骨が折れたのか、筋が伸びたのか、だらりとさがった十紅子の左腕には、もはや重力に逆らうだけの力も残っていないようだった。 「なんだよ、これっ!?」 「平気よ」 「嘘つくなよ! 痛くないわけが……、あ!」 「そうよ、痛くないの。だから、平気。心配しないで」  十紅子が微笑んだ。 「わたしは、人間じゃないから、……あの人たちに造られた、ただの『物』だから、そんな風に心配しないで」 「で、でも……」  池に入っても濡れなかった十紅子の体。  包丁で貫いても、血の一滴も流さなかった体。  息も吐かず、まばたきもしない十紅子の体。  しかし、崇の目の前に『居る』のは、若い一人の女性であり、『倉内十紅子』という存在には違いない。 「平気よ。大丈夫」  十紅子が微笑んだ。 「それよりも、……一緒に行ってくれるんでしょう?」 「……うん。約束だから」  その時の崇には、うなずく他に道はなく、うなずく以外にしたいこともなかった。  激しく呼吸する崇の視界は白く曇っていたが、そのむこうの十紅子の口は、何の色にも染まっていない、月光をうけて青い燐光を放つ十紅子の体は、公園で見た時よりも何倍も美しく、何倍も寂しそうに見えた。  しかし、もはやそれすらもどうでもいい、と崇は他の一切の感情をねじふせた。  今は、先に進むこと以外、考えたいと思わない。  全ての答えは十紅子が知っていて、崇は彼女に追従することで、それを知る道を選んだのだ。 「うーん、雪が降ってますね」  極端に落ちた車のスピードを嘆きながら、田原坂が言った。  途中から積雪の跡は見られていたが、路肩に雪が残っていても、除雪されていて路面も乾いていれば問題はなかった。  しかし、飛騨古川に近付くにつれ、今夕に降ったばかりと思われる雪が、ところどころ白い塊になって路面にはりついている。  後部座席では、魅伽と花映がもたれあって惰眠をむさぼり、助手席の有王だけが、すでに読み終わってしまった大野上の調査書を丸め、物思いにふけっていた。 「時間がかかりそうかな?」 「いえ、あと一時間もかからずに古川に着くと思いますけど」 「そうか」  田原坂に尋ねた後、有王は大きく嘆息してシートに全身をあずけなおした。  後ろにいる魅伽の足が邪魔で仕様がない。 「なるべく、夜明けまでに崇たちに追いつきたいんだが」 「夜明けまでなら、いさわ町には充分にたどり着けますよ」  田原坂が請け合った。 「でも、どうして夜明けなんです?」 「夜が明けたら、おそらく術が無効になる。十紅子が主の影響下をぬけているならな」 「無効? つまり、解ける……ということですか?」 「そうだ。それでも、朝までくらいは持つ。たいしたもんだよ」  有王は、開いた手でポケットに煙草をさがしたが、すぐに無いことに気付く。  手のやり場がなかったので、丸めた調査書で掌を叩いた。  獲物をとりそこねた猫の代償行為のようだった。 「彼女は、苦しがってはいなかっただろう?」 「ええ、……そういう風には見えませんでした。少なくとも、私には」  だったらいい、と有王は喉の奥でつぶやいた。  反魂は、時に大変な苦しみを『呼び戻された者』に与えるという。  倉内十紅子がただの『傀儡』なら、今の彼女を動かしているのは、体の形を作っている骨の記憶に過ぎない。  しかし、それはともかくとして、倉内十紅子が亡くなったのは、魅伽の占いによれば昨年の八月ということになる。  有王が花映や燿に遭ったのが十二月だから、十紅子の傀儡が造られた理由は、有王たちと直接の関係はないはずだ。  それが、今さら有王たちに関わってくるということは、『綾瀬』にとって傀儡の本来の役目が終わった、ということになるのだろうか?  それとも、偶然なのか? 「この右手のずーっと向こうが、飛騨古川駅ですよ」  沈みがちな有王に、田原坂が明るく告げた。 「駅には行かないのか?」 「41号線は、町外れを走ってるんですよ。バイパスは、大型車も通ってうるさいですしね。これから左に折れます。……今度は、細い道になるはずなんですが……」  田原坂が言って間も無く、路肩の青い看板がいさわ町への入り口を知らせているのが目についた。 「右折二十二キロでしたね。とりあえず、一時間少し見といて下さい」  ゆるやかな動きで左折して脇道にはいると、道は本当に狭かった。  道の両側には雪が低い壁をつくっているし、道の所々に開いた穴が、解けた雪水をためて凍りつき、黒いコールタールのような光をライトに反射させている。 「つるっつるっですね……」  珍しく田原坂が弱音を吐いた。  国道は左右に夜間照明もあったが、脇道にはいると月光以外には車のライトしか存在しない。  しかも左右に曲がりくねっていて、凍結に注意しながらコースもよむのは、運転になれた田原坂にも難しいらしかった。 「雪が少なくて助かりました」  しかし、田原坂の口からは、有王の予測していなかった言葉が出る。 「一昨年、友人と木曽の方にドライブに行ったんですよ。別の友人に、スキーならともかくドライブに行くのは馬鹿だと言われたんですが……けっこうひどい目にあいましたからね」 「ひどい目?」 「道端の草にもぎっちり雪が積もってて、そこに車輪をひっかけたらバラバラっと、雪と一緒に川に転落ですよ。水が少なかったのと、川底が高かったのが幸いでしたが、下手をすると大怪我という状態でしたからね」 「真冬に川に落ちたのか……」 「ええ、まあ。今日は女性もいらっしゃいますし、あの時よりは注意しているつもりですから」  有王の内心を読みとったように、田原坂が言った。  しかし、その口調からして、ゴール近しと浮かれている気配が感じられる。  名古屋からの長い道程、交替もなく延々と運転を続けていたのだから無理もない。  車から降りてからのほうが大変なことになるという予感が有王の胸にはあったが、それを今、田原坂に告げるのは余計なことのようだった。 「崇たちは、どうやっていさわ町に入るつもりかな?」 「そうですね……。時間的に、古川まで列車で来れるかどうか怪しいですからね。高山からタクシーですか、……歩きってことはないですよね」 「……ああ」  道路はともかく、周囲は物の形もわからないほどの雪に覆われている。  形がわかるのは木や電信柱くらいのもので、あとはデコボコとした白い野原にしか見えなかった。  だが、雪原の明るさはかなりものだ。  くっきりとした月の光を反射して、目が馴れれば昼間に相当するほど自由に動けることは間違いない。 「ひょっとして、崇くんたちを追い越してはないですよね?」 「それは、……どうだろうな」 「大丈夫よ」  ふいに、後部座席で眠っていたはずの魅伽が言った。 「大丈夫よ、有王」 「魅伽さん」  う……ん、とねぼけた声が、田原坂の呼び掛けに応えようとする。  しかし、それはどうやら徒労に終わりそうだった。  彼女はまだ、深い眠りの淵にいる。 「寝言だよ。あいつは金にも汚いけど、眠るのにも汚いからな。トンカチで叩いたって起きやしない」 「……よくご存じですね」  なんと言っていいのかわからない、そんな風に田原坂が言葉を濁す。  自分が魅伽の眠りっぷりを知っているのは、普通に考えれば変なのだと気付き、有王は顔をしかめた。 「こいつは、何だって『大丈夫』『大丈夫』だ。ホントにマズいことは、絶対に言わないんだからな」  あの時も、魅伽は『大丈夫』と言ったのだ。  葛城山《かつらぎざん》の齋姫《いついひめ》を巡り、有王が無謀な戦いに挑んだ時ですら、魅伽は『大丈夫』と言って有王を力づけた。  ……確かに『大丈夫』に違いはなく、齋姫は山に戻り、有王は己の生活へと立ち返った。  誰も死なず、何も変わらず、時間以外は動かなかった戦い。  目に見えない大きな傷だけを有王の心に残して……。  あの時、魅伽には結末が見えていたのだろうか。 「ああ、家が見えてきましたよ」  少し安堵した声で、田原坂が告げた。  道からかなり雪原に踏み込んだ場所に、チョコレート色の民家が、パウダースノーのような雪をかぶって建っている。  月光に照らされて静まり返った風景は、おとぎ話のように現実感がなかった。 「いさわ町の看板があったぜ」 「……ダムはどっち側でしょうね?」  田原坂が尋ねた。  有王はあわてて地図を広げ、役にたたないと知ると、今度は調査書に添付されていた周辺図を捜そうとする。  その間も車はゆっくりと町の中心部へと進み、ようやく周辺図を捜し出した時にはもう二キロ近くも前進してしまっていた。 「田原坂さん、ちょっと、車を止めてくれ」  はい、と返事をしてすぐに、田原坂は洋館風のピンクの建物の横に車をとめた。  さすがに中心部へ近付くと、まばらながら民家も増え、雪も少ない。  ライトをスモールに落とし、エンジンをかけたままで、有王の指示を持つ。 「この周辺図は、各戸の名字が書き込まれているんだが……」 「役場でコピーしたみたいですね」  有王の手元を覗き込み、田原坂が言った。  白い紙にかくかくとした線が走り、やはりかくかくとした家の形に名字が記されている。  地元の人間には分かりやすいかもしれないが、どこが誰の家だか分からない外部の人間には、見辛いことこの上ない。  もっとも、目立つ看板や大型のビルもないこの町では、他にどんな地図があっても同じように頭を悩ませる結果になったかもしれない。 「道路を見ましょう。どっち側から来たか分かれば、だいたい今どこにいるのかがわかります」 「駄目だ。端が切れちまってる」  周辺図は、一回り大きい地図からコピーしたものらしく、どの道がどこに通じているのかを記していたはずの端の方が入っていない。  実際にこの周辺図を使うことを考慮しなかったのか、ただの怠慢なのかはわからないが、もはやどうでもいことだった。  はっきりしているのは、この周辺図が役に立たないということだけだ。 「公共施設を捜すのはどうかな? 郵便局とか公民館があるし、交番と消防車の車庫もある。そう言う所なら玄関に丸い電球がついてるんじゃないか?」 「そうですね。えっと、……郵便局と交番が隣接してますから、それをみつければ……」  ふっ……、とオレンジの光が車内に差し込んだ。  田原坂は手で顔をおおい、逆に有王は顔を上げた。  すぐに人間の白い手が窓をノックし、何かを話しかける声がした。 「いい、おれが出る」  窓を開けようとした田原坂を制し、有王が車から降りる。  運転席を覗き込んでいた人物は有王にライトをむけ、すぐにそれを足もとに落とした。 「何をしているんですか?」  丁寧だが、威嚇の響きをもった男の声が問う。  月光に照らされたコートは、目をこらすまでもなく警察官の制服だと知れた。 「深夜なのに、ライトとエンジンをつけっぱなしの不審な車がいるとの通報がありましてね。……ちょっとエンジンを切っていただけませんか?」  やや慇懃《いんぎん》な口調で言い、警官は運転席を指差した。  有王は身をかがめて車中をのぞき、エンジンを切ってくれと田原坂に頼んだ。  すぐにエンジン音が止み、シュウシュウという余韻が静けさに拍車をかける。  なるほど、かなりうるさかったのだろうと反省し、有王は警官の次の言葉を待った。 「どちらからいらっしゃいました?」 「……東京から」 「何をしにいらしたんです?」  何をしに? 倉内十紅子と高田崇を捜しに……。  有王は即答できなかった。  警官の眉尻が少しだけ上がる。  まだ若い警官の目には、あきらかに不審そうな色がやどり、有王の派手な姿を映している。 「ちょっと、何なの!? もう着いたの?」  突然に後部のドアが開き、惰眠を貪っていたはずの魅伽が顔を出した。  黒ずくめのシックないでたちはともかく、化粧は濃いわ、コンゴウインコなんか連れているわ、これでは不審の二乗である。 「いいから、魅伽……!」  戻ってろ、というよりも先に、反対側のドアも開き、今度は花映が降りてきた。  長身にスラリとしたモデル体型と、個性的だがすっきりとした美貌の少女は、不思議そうに警官を一瞥したものの、無言で事のなりゆきを見守っている。  魅伽の場合は野次馬根性だろうが、花映はただ車から降りて手足を伸ばしたかっただけだと思い、有王は心の中で大きく吐息をもらした。  どうして、皆、こんなに勝手なのだろう。  だいたい、これでは不審も三乗だ。  警官がかなり構えているのが分かったし、あからさまに怪しい者を見るような目付きになっている。  だが、有王の気持ちをよそに、今度は運転席から降りてきた田原坂が、 「すみません」  と開口一番あやまった。 「私たち、東京の雑誌社の者ですが……」  はあ!? と警官がとんきょうな声でつぶやく。  そのまま有王の心の声だった。 「実は、彼女らはモデルです。彼は専属のカメラマンでして。雪の山中の朝日の中で撮影をしたいと思いまして、車をとばして来たんです。もう少し遅くにつく予定だったんですが、道路の状態がよくてこんなに早くついてしまいました」 「そうなのよ、おまわりさん」  魅伽が同調した。 「それも、ただの山中じゃなくてね。『ダム工事の資材置き場』がいいの。私たち、『大野上』さんに聞いてきたんだけど、道が分からなくてね。……案内していただけるかしら?」  今度は、田原坂がきょとんとした。  こんなストレートな説明で納得してくれるのかという顔だったが、警官は魅伽の言葉にうなずき、そういうことなら、とつぶやいた。 「沢之衣は、でも、雪が深いですよ」 「大丈夫」  魅伽が、能面に似た怖い微笑を浮かべた。 「案内して下さるだけで結構ですの」  月光だけを頼りに、舗装されていない雪の坂道を歩くことがこんなに困難だとは、全く予測できないことだった。  飛騨古川の町並みを離れ、一般道路からも離れて山林に踏み込んだ崇と十紅子は、もはや時間もわからないまま、黙々と足を動かし続けていた。 「気をつけて」  十紅子が何度目かの注意を口にする。  しかし、白い雪の下の溝や小川は目に見えず、足を踏み込み掛けてようやく気付く。  スニーカーのゴム底はスケート靴のようにつるつると滑るし、樹葉にまもられて雪のない場所は、光も届かずにひどく暗かった。  足が重いし、コートも重い。  まもなく汗びっしょりになったが、行程としてはさほど進まず、コートを捨てていくわけにもいかない。  泥と雪にまみれたそれを腰にまきつけ、崇は息をきらしながら十紅子に追従した。  月光に照らされた針葉樹の森は驚くほど美しく、幻想的で無慈悲に崇を苦しめた。  それでも、雪も水も凍っていたからまだ助かっているのだ。  これで日が差し、あたりがぬかるんでいたら、明るさと引き替えにできないほどの徒労を味わわされたに違いない。  しかし、崇の疲労ぶりとは対照的に、前に行く十紅子の足取りは軽い。  体を無駄に動かすことなく、滑ったり転んだりすることさえなかった。 「十紅子さん……!」 「休みましょうか?」  何度目かの崇の呼び掛けに、振り返った十紅子が気の毒そうに言った。  だが、その顔を見るたびに崇は首を左右に振り、急ごう、と心にもない言葉を口にしてしまうのだ。  口から出るくらいだから、心のどこかにそんな気持ちもあるのかも知しれない。  崇は、十紅子の背中を見失わないように目をこらし、足もとをふみしめるようにしてゆっくりと前に進んでいった。  雪と黒い土のコントラスト。  月光と樹木の作る影の明暗。  単調で独特な世界が、視覚と嗅覚の二つだけを完全に支配している。  白い息が顔にかかり、まるで蒸気のように顔を湿らせる。  その湿り気が、凍り付くような寒気を強く実感させる。  眩暈《めまい》がする……。  崇はついに足をとめた。 「休みましょう」 「……うん」  ついに、崇は十紅子の提案に同意した。  心臓は爆発しそうに騒いでいるのに、体は泥のようにねっとりとしている。  自分の体を御しきれない口惜しさに、崇は荒い息を吐き続けた。  しかし、足をとめると精神の緊張は緩む。  休息は、体の飢えに対応する良質のエネルギーのようで、しばらく休めばまら歩けそうだという希望を崇の胸に小さく灯した。 「苦しくない」 「暑い! さっきまで、寒くて死にそうだったのに」  息をきらしながら、崇はわめいた。  もはや恐怖も不安もなく、ただ前に進むことだけが思考のほとんどを埋めている。  両ひざに両手をつき、少し前かがみになって呼吸をととのえた崇は、勢いよく顔を上げて十紅子を見た。 「さあ、行こうか」  体をのばそうと手をあげ、そこに伸びていた白い木の枝につかまろうとした瞬間、 「だめ、それは……!」  十紅子の叫び声が遠くに聞こえた。  枝が折れる軽い衝撃と、どこかに吸い込まれるように感覚。  十紅子の手が崇の体を掠《かす》め、崇は大量の雪が自分の体を押し包むのを感じた。  それから、すぐに落下の感覚。  雪は、驚くほどの重みをもって、崇の自由を奪っていく。  疲れている時に失神するのは、存外に気持ちがいいものだと崇は無意識に実感していたが、逆に目覚めはあまり芳しくはなかった。  がくんがくんと体が上下に揺れていて気持ちが悪いし、何よりも寒い。  いや、冷たいというべきか。  雪山などでは、あまり寒いと眠くなるらしいが、今、崇がおかれている状況は、それとは大きく異なったもののようだった。 「ん……、うー……っ」  喉の奥の空気を吐き出し、崇は身動ぎした。  途端に、喉が切れるほどの寒気がいっきに肺に流れ込み、崇は奇妙な格好なまま、激しくむせた。  少し前屈みになっているみたいだった。 「気が付いた……?」  十紅子の声が、胸の下で聞こえる。  崇はゆっくりと目をあけ、自分の視線の先に道があるのを見て、驚いた。 「下ろすわよ」  そうっと、地面に下ろされて、ぺたんとその場に座り込む。  すっかり冷えきってしまった体には、やわらかい雪は羽毛のように暖かく感じられた。 「寒くない? 痛いところは?」 「うん、……どこも怪我は……」  崇は気を失ってから今まで、十紅子に背負われていたらしい。  怪我はないと答えようとして、崇は言葉を切った。  目の前にある十紅子の左足が、……足首から下がない! 「十紅子さん! なんだよ、これ!? どうして、……こんな……」 「心配しないで」  十紅子が穏やかに告げた。 「さっきと同じ、今度は消えてしまっただけだわ」 「なんで……?」  古川駅前で破損したままの左腕をだらりとたらし、十紅子がまだ動く右手を崇に差し出した。  その手は人間の手を寸分も違わない、白くて美しい手なのだ。  この下に赤い血が流れていないと知っていても。崇はためらうこともなく手を伸ばし、氷よりも冷たい手に手をあずけて立ちあがった。 「東京に戻ろう、十紅子さん」 「どうして?」  意を決した崇の提案を、十紅子は不思議そうに退ける。 「オレ、燿に頼むよ。十紅子さんの体を直してもらう。行き先なんか、もう、どうでもいいだろう? ずっと、田原坂さんのトコで暮らせばいいよ」 「それはできない」 「なんでだよ!?」 「わたしは……人間じゃないもの」 「いいよ、そんなこと! 人間か人間じゃないかなんて、誰が決めるんだよ。十紅子さん、動いているし、喋ってるし、……生きてるじゃないか!」  崇は怒声を上げた。  気持ちをうまく言葉にできない。  自分への怒りと、分かってもらえない悔しさがない混ぜになっている。 「それは、違うわ」  けれども、十紅子は崇の身勝手ともいえる意見を激昂したり嘲笑《あざわら》ったりすることなく、静かな口調で退けた。  動作や外見はどんどん人間のそれから離れていくのに、それと比例して、十紅子の内側は人間と同等のもので満たされていく。  もちろん、崇にはそれを細かに知る術はなかったが、感じとることは可能だった。 「動いていなくても、人間は人間だわ。喋らなくても、動かなくても。だけど、……わたしは違う。わたしは人間じゃない」 「そんなこと、関係あるかよ!」 「きっと、わたしは、……倉内十紅子でもない。ずっと以前に、倉内十紅子の一部だったというだけの存在なんだわ……」 「……けど……」 「気持ち悪いの。記憶が重なりあっていて、所々消えていて、苦しくはないけれど、苦しい。痛くはないけれど、痛いの。解放されたい。終わりにしたい。自分という存在が、あってはならないものだと気付いたから」  十紅子が目を伏せた。  だけど……、だけどとつぶやきながら、崇は拳を握ってうつむいているしかなかった。  本当は、今から東京に帰る事なんて無理だ。  燿に、十紅子を助けてくれと頼むことだってできはしない。  そんなことをしたら、燿に今以上の負担を強いることになると分かっている。  分かっていて尚、十紅子が消えてしまうことに耐えられない。  どんな言葉をつくされても、崇には理解できない。  同じ形を保つ、人と呪物《まじもの》の違いなど、分からなくてもいいと思う。  人間を形づくっている肉体は確かに目の前に存在するし、精神《こころ》なんて目には見えない。  微笑み、喋り、辛いと言ってうつむく十紅子のどこにも『人間』たる資格がないなんて、崇にとっては最低の冗談としか思えないのだ。  けれども、全ての終わりを切望しているのは十紅子自身で、崇にはそれを邪魔する権利はない。 「うっ……、うう……」  噛み締めた歯の間から、唸り声が漏れ出した。  頬を、熱いものが流れていく。  自分にできることが何もない。  ここまで十紅子についてきて、邪魔をして、わがままを言い、ただ泣いているだけだ。 「ありがとう」  十紅子の手が、そっと崇の頬に触れた。  氷のように冷たい手は、涙すら凍りつかせてしまいそうだった。 「ここまで、連れてきてくれてありがとう」  十紅子の青灰色の瞳が月を仰ぐ。  上天に輝いた月が、わずかに位置を変えていた。 「もうひとつだけ、頼んでもいいかしら?」 「……うん」 「夜が明けたら、わたしは消えるけれど、ひとつだけ、残していくものがあるわ。……それを、堤谷に住んでいる、わたしの両親に届けて欲しいの」  言葉もなく、崇は強くうなずいた。  ありがとう、と十紅子が繰り返す。  その小さな声は、雪の樹林に吸い込まれて消えた。  二人は、再び歩き始めた。  警官の案内を受けることになった有王たちは、町のはずれまで車で移転し、そこからは徒歩で山に入ることになった。  ダムの建設予定地は町外れの山間にあり、冬期は雪が積もっていて車では入れない場所だという。 「足もと、気をつけて下さいね」  多少打ち解けた口調で注意し、警官は懐中電灯をかざして先にたった。  魅伽はアンクルブーツだったし、花映にいたってはヒールのあるロングブーツである。  田原坂や有王とて、あまり雪の山道に適した靴ではないし、警官が心配するのも当然のことだった。  雪は、山に近付くと途端に量を増やしたようだった。  それでも、人里離れた道を歩く人々もいるようで、周辺の雪原に比べれば幾分か歩き易くなっている。  田原坂は凍った雪に足をとられて閉口したが、有王と花映は平気な様子で警官の後に従っていた。  魅伽は、その有王の腕にちゃっかりと掴まり、ひどく迷惑そうな顔をされているのに気にもとめない。 「田原坂さん、私につかまるといいよ」  あまりに転ぶ田原坂を見兼ねて、花映が声をかけてくれた。  彼女がこんなに優しいことを言うのは不思議だったが、田原坂が予想外に足手|纏《まと》いだったせいかもしれなかった。 「長靴くらい用意して来ればよかったのに、どうしてそうしなかったんです?」  それを言うなら、カメラバッグも機材もない撮影の方が不審だろうに、警官は軽い調子で有王に尋ねる。 「このへんは、冬はずっと根雪の状態なんですよ」 「ああ、そうだな」  夕方までは、こんな場所に足を伸ばす予定がなかったからな、と有王は心の中でつぶやいた。  左腕に掴まった魅伽が邪魔だったが、蔦《つた》が絡んでいると思えば我慢できないこともない。 「ゴクローサマデス」  コンゴウインコのジャックがすっとんきょうな声を出し、そのせいで樹葉に積もっていた雪がドサドサと崩れ落ちた。 「この先を曲がると、ですね」  大きくカーブした道を曲がると、先にもずっと同じような山道が続いている。 「あれ? 勘違いしたかな?」  すみません、と有王たちに謝って、警官は再び先へと歩き始めた。  山道は、どこをどう歩いても、急なアップダウンでもない限り、自分のいる場所を正確には掴みにくい。  山で迷うのは場所の認識を失うためで、多少慣れは関係するが、慣れているから迷わないという質のものでもなかった。 「次のカーブを曲がると……?」  あれ? そんな……? と警官は同じ言葉を繰り返した。  大きなカーブを曲がっても、先によく似た道が続き、その先にまた大きな曲がり角が見えている。  月光は薄くなり、かわりにぼんやりとした出所の分からぬ光がほのかに行く手を照らしているが、それでも、薄暗がりと大差ある明るさとは言えない。  警官はぶつぶつと言いながら懐中電灯をかざし、変だ変だと不吉な予感を与える言葉を繰り返した。 「そんなに遠くないはずなんですよ。ここが、ダム工事の現場に一番近い道なんですから」  おかしいな、と警官は周辺の木々を何度も照らした。  明かりを向けられた木々は、反対方向に大きく影をのばし、有王たちの感覚をますます混乱させるだけだった。 「迷路みたいねえ」  くすくすっ、と無責任に魅伽が笑った。  足をとめるが早いか、有王は自分に掴まった魅伽の腕をほどこうとしたが、彼女はそれよりも先に手を離してしまっていた。 「花映ちゃん、どう?」  何がどうなのか、田原坂には分からなかったが、花映はこくんとうなずいて見せる。 「変な匂い……」  ねえ、と魅伽が花映に同意を示す。 「どうにかしてよ、有王」  無責任にも全てを有王に一任し、魅伽は自分の支え手を花映に移して立ちどまっている。 「このテの結界はあんたの領分だわ」 「うるさいな」  言われなくても、と有王は周囲を見回した。  警官は、まだブツブツ言いながら懐中電灯を振り回している。 「結界なんですか?」  あの年末の河原で見た、菊名翁が草で作った結界を思い出し、田原坂も周囲に視線を走らせる。  確か、あの時の有王は、『符とか玉とか鏡とか……』と言っていた。 「あと、何でしたっけ?」 「え?」 「ああ、紐で作った模様でしたね」  ようするに、何でもありだな、と田原坂がつぶやいて、有王を苦笑させた。 「花映、この結界を張ったのは誰だかわかるか?」 「由多だよ」  さも嫌そうに、花映がそっぽを向きながら答える。 「由多の得意は何だ?」 「糸と爆薬。あいつ、いつも小さい箱を持ってて、中には……肉片のついた長い銀の髪の毛が入ってる。それから、急に物を爆発させて人を驚かすのが好きなんだ」 「ああ、驚いたよ。おれもな」  唇の端を少し持ち上げ、有王は花映を差し招いた。  花映が動くと、心得た様子で魅伽が引く。 「匠から首飾りを預かってるだろう?」 「うん」  花映がうなずき、ポケットから紐のついた水晶を取り出す。  それは、花映が外出する時に匠が必ず持たせる護符のようなもので、水晶を媒体として匠の力を伝える働きをする。  道の中心に花映を立たせて、有王はその背後に立った。 「水晶に手をかざして。そうだ」  花映の手を持ち、水晶を包み込む格好で手をかざさせると、有王は皆に地面に伏せるように命じた。 「……ケープが台無しね」  人の気持ちを逆撫でするのが生きがい、といわんばかりに魅伽が言い、田原坂を苦笑させたが、結局はおとなしく冷たい地面に腹這いになる。 「花映、匠を呼んでみろ」 「……うん……」  花映は目を閉じた。  有王の手を添えられた甲の方が熱を帯び、それが掌から放出される。  同時に水晶が熱くなり、花映は、熱の中心にぼんやりとした人の姿を思い浮かべた。  白い、奇麗な横顔。  色素は薄いが、やわらかな髪の下で黎明《れいめい》の光をたたえた暁色の瞳。  手の中の水晶はゆっくりと輝き始め、やがて太陽にもおとらぬ強い光が辺りを照らす。  雪はきらきらと輝き、樹木は黒々とした影を落とす。  その中で。  木の枝に張られた蜘蛛の糸も、白く艶やかな光を放っている。  真冬の、山間に張られた蜘蛛の糸。 「もう、いい」 『えーっ! もういいの!?』  突然に匠の大音響があたりに響き、地面に伏せていた警官の肩をびくんとふるわせた。  この場にいない第三者の声だ。  よほど驚いたに違いない。 「充分だよ。ちゃんと花映ちゃんの役にたったろ?」  面倒くさそうに有王が言うと、抗議の声は一層はげしくなった。 『こんなの詐欺だよ。有王が花映ちゃんをアンテナ代わりにしただけじゃないか。なんだって、いつもいつもおまえを助けなきゃならないんだ!? 怠慢だよ。ちゃんと働かなくちゃだめじゃないか』 「花映、手ぇ離せ」  ふっ、と光が消えた。  あたりは先程とは比べ物にならないほどの暗さに支配される。 「もう立ってもいいよ」  田原坂と魅伽と警官が立ちあがると、有王はコートのポケットから魅伽の手紙を取りだし、蝶の形に千切って息を吹き掛けた。  白い紙の蝶はひらひらと頼りなく舞い、やがて吸い寄せられるように蜘蛛の糸に羽をつけた。  ボン! と目も眩むような炎があがり、紙の蝶は一瞬で灰になってしまった。  よし、と有王はうなずき、靴のかかとからナイフを抜きとる。 「これで仕上げだ」  ぴっ! と有王がナイフを横|薙《な》ぎに払った。  田原坂が、これ以上ないほどに目を見開く。  有王のナイフは、感嘆の表情を浮かべた警官の首を、すっぱりと左右に切断していた。 「何をするんですか!?」  ぐらり、と警官の首が後ろにかしぎ、地面に落ちて転がっていく。  首なしの体はそのまましばらく立っていたが、やがて音をたてて崩れてしまった。  後に残ったのは、丸や四角のいくつかの木片と、木片に絡みついた長い銀の糸だけだ。 「結界が解ける……」  有王の言葉通り、風景の薄皮を一枚めくったような感覚を残し、視界が変化した。  森林の低地に忽然《こつぜん》とあらわれた広い雪原。  白一色に染め上げられた中に、でこぼこと小さな隆起が見える。  隆起の下には資材と思しき黒い影が見える。  有王たちは、まさにダム建設予定地の真ん中に立っているのだった。 「すごいねえ」  ゲームのエンディングのように、少年の歓声と拍手とが一行を迎えた。  声の方向に目を向けると、資材置き場の一番高い場所に水色のコートの少年が座っている。  艶やかな黒い髪は薄闇の中でも光を放ち、輝いていた。 「よくできた人形だったのにな」 「……まあまあだな」  ついさっき破壊したばかりの警官を評し、有王は言った。  人間そっくりの人形を始末することにも抵抗はないが、趣向としては楽しめるものではない。  そもそも人間そっくりの呪物《まじもの》を作るという発想自体が理解できない。 「ゲームのオープニングも楽しかったろ? キーワードは間違えなかったみたいだねえ」 「最低の悪趣味だ」 「最高の、だろ? ねえ、花映」 「由多の馬鹿」  花映が吠えた。 「なんで、こんなことするの! あんたなんか『綾瀬』の奥にひっ込んでればいいのに!」 「それじゃあ、全然つまらないじゃないか」  由多が笑った。 「ボクは退屈なんだ。だれもボクほど強くないし、位だって高くない」 「私たちは、あんたの玩具じゃない! あんたなんか、母親にかまってもらえなくてスネてる、ただの子供じゃないか!」 「うるさい!」  どん! と資材置き場の一角から炎の柱が上がった。  魅伽が小さな悲鳴を上げて耳をおおう。  田原坂はその場にぺたりと尻餅をついてしまった。 「黙れよ! 花映なんか、ただの化け物のくせに!」 「化け物で結構よ。あんたと同じ生き物じゃなくて、せいせいする!」  花映の言葉と共に、先程の三倍はあろうかという火柱が上がる。  爆煙が闇を灰色に染め、息の詰まるような匂いをあたりに充満させた。  あちこちで、雪が落ちる音が続く。 「花映、挑発するな」  ぐい、と花映の肩を両手で押さえ、有王は半歩だけ前に出た。  由多と対峙《たいじ》する理由はどこにもなかったが、相手が仕掛けてくるなら、全力で迎え撃たないわけにはいかない。  由多の呪術と有王の呪術とでは、その質が違いすぎる。  力量ではなく、本質がかなり異なるのだ。  あれで、菊名翁の呪力は、有王とほぼ同質のものだった。  ぶつかり合いは派手だったが、純粋な力比べといってもいい。  しかし、由多とやりあうのなら、それは力比べではなく、かなり頭脳合戦をまじえたものになるだろう。  だからこそ、やる気満々でたくさんの布石を打ってきた由多の方が、数倍も有利な位置にいることになる。  心の中ではかなり動揺していたが、有王はポーカーフェイスを装って、じろりと由多をねめつけた。 「目的はなんだ?」 「目的?」 「予定調和をきどって、おれたちの間に人形を投げいれてみせた、その目的は何だと聞いているんだ」  目を見開き、くすくすっと由多が笑った。 「目的なんかないよ。ただ、ボクは退屈しているだけ。あんまり退屈だからさ、人形劇を楽しもうと思ってさ」  ほら、と由多が細い指で有王の左方向を指した。  ダムの堤を作る途中で放棄されたらし小さな壁の向こうに、点のような二つの人影が見える。 「崇くん!」  田原坂が声を上げた。 「ほら勝さん。十紅子さんがやってくる」  由多が資材の陰に声をかけると、そこからこげ茶のコートに身を包んだ大野上が姿を現した。  最後に顔をあわせてから、わずかに十数時間しか経っていないというのに、彼は別人のように容貌が変わり、顔色も悪くなっている。 「あんたが十紅子さん捜しを依頼した占者と、呪禁師と、ついでに多彩な脇役もいる。もちろん、あそこに十紅子さんもいるからさ」  すっと資材の上の由多が立ち上がった。 「これで、ゲームが始められるよ」  夜明け前の空気は、どんな時間よりももっと冷気を強めている。  一陣の風が吹き、まるでゲームの開始のフラッグのように、皆のコートをはためかせた。     6 ボトム・カード(BOTTOM CARD) 「花映……」  有王は傍らにいる花映に、そっとささやいた。 「田原坂さんと魅伽を連れて逃げろ」 「だめ」  花映が即答した。 「この辺りは、由多の匂いでいっぱいだよ」  盗み見るように視線をめぐらすと、白い雪原に、明らかに色の違うきらめきが見てとれる。  それは、爆発で掘り返された黒い地面の近くほどよく分かり、有王はすぐに自分たちの周囲をとりまく銀糸の存在を知った。  おそらくは、ここに至るまでの結界に捕らわれている間、外側に張り巡らされたものであろう。  ……結界を結界で包むやり方は、不完全ながら、キリエが匠に対して行ったやり方であった。  ———どうする?  有王は、資材の上に座って腕を組み、崇たちを眺める由多を見た。  有王の視線に気付いた由多が、こちらに頭を振り向けてニヤリと笑う。  一方の崇たちは、目指すダム工事の現場に近付いたものの、雪や資材を跳ね上げる爆発に驚き、進むことも下がることもできないままでいる。 「崇くん!!」  声をあげ、崇に駆け寄ろうとする田原坂の腕を、有王は乱暴に掴み、後ろへと押しやった。  こんな状況で走り出せば、たちまちブツ切りにされてしまう。 「動くなよ、田原坂さん」 「そうだよ。動いちゃだめだ。ボクが許可をだすまではね」  ふふん、と鼻を鳴らして、由多が資材の山から飛び降りた。  背中に羽があるのか、と思えるほどの軽い身のこなしだった。  滑りもせずに地面に降りた由多は、下に立っていた大野上の背を軽く押す。 「ほら、あなたの大切なお人形だよ」  指の先には、十紅子がいる。  有王の気掛かりは崇一人だったが、どんな言葉を使っても、崇は十紅子を置き去りにして逃げたりはしないだろう。  崇が十紅子と一緒にいる限り、有王もうかつには動けない。  十紅子の意識がどうであれ、由多にとっては有利な人質を手にしているのと同じだったし、有王にとっては全く逆の状態になっていた。  唯一の救いは、何故か崇と十紅子が雪の中で足をとめ、周囲の様子をうかがう小動物のようにじっとしていることだ。  確かに有王たちの存在に気付いているだろうに、一向に駆け寄ってくる気配はない。  多分、十紅子が由多の糸に気付いて、崇を引き止めているのだろう。  有王は、十紅子の存在を有難く思うべきなのか、どうなのかという、どうでもいいことにも考えを巡らせてしまった。  しかし、もともと有王をこの事件に引き込んだはずの大野上は、すでに有王など眼中にないといった様子で、由多を従え、ゆっくりと雪の中を歩いている。  凍った雪を踏み砕く靴の音が、有王の耳には、まるで死刑執行の秒読みのように聞こえた。 「……どうするんですか……?」  見えない壁に阻まれて、じりじりしながら事の成り行きを見守っていた田原坂が、抑えた声で有王に問う。 「……とにかく、先に結界を壊さないと、身動きがとれない」 「花映さんは……?」 「ダメだってば。匂いが散らばってて、どうなってるのかわからない」  崇に近付いていく大野上と由多を見ながら、有王は全身にびっしょりと汗をかいていた。  確かな殺意も害意もない。  ただ『遊ぶ』ためだけに崇に近付いていく由多は、行動を予見することも予想することもできがたい、恐ろしい存在に見える。  害虫と認めて虫を殺す大人よりも、生きたまま羽をむしり、ひもをつけて玩具にする子供の無邪気な残酷さのほうが恐ろしいように。 「崇……!」  この場に匠がいれば、いや、せめて太刀があれば……!!  かなわぬ願いを胸に描く。  しかし、有王はすぐに気持ちを切り替えた。  身を屈めて一握りの雪を掴み上げる。  手の上に溶けもしない雪をかざし、何事かを低くつぶやく。  右手で雪塊の上に文字を空書し、ばっ! と空中に放り投げた。  雪塊は、空中で砕けた。  四散した白い雪は結晶レベルまで分化し、細かくきらめきながら灰色の闇を舞う。  目を凝らさねば見えないほどの小さな一群れは、かりそめの生命を与えた有王の命に従い、ゆるやかに銀の糸へ寄り付いていった。  何とかなる、と有王が実感した瞬間、田原坂が息を飲む大きな音が耳に飛び込んできた。 「有王さん……」  魅伽の向こうの、雪原の外れ。  大野上の後ろを歩いていたはずの由多が、大きな黒い瞳を有王たちに向けている。  かなりの距離があるはずなのに、その瞳は強い支配力をもって、糸に封じられた面々を眺めていた。  あ・そ・ぼ・う。  薔薇色の唇が小さく動き、邪悪な笑みを形作る。  それを合図に、あちこちの雪塊が、おそろしい勢いで隆起を始めた。  一メートル数十センチもの隆起の連続のあと、雪柱が自らゆるやかに形を整えていく。  手が独立し、二本の足が分かれ、まばたきする間に有王たちは、手足が生えたスマートな雪人形の群れに囲まれていた。  ふらり、と不安定な動きで雪人形が歩きだした。  鼻も目もない白い人形が、倒れ込むようにして有王へと攻撃らしきものを仕掛けてくる。  掌に文字を空書し、左手で雪人形を叩き伏せた有王は、素手で氷の塊を叩き割るのに似た痛みを味わった。  倒れた人形は崩れて雪に戻ったが、後ろからもわらわらと押し寄せる人形の群れは、痛みも恐怖もなく押し寄せて、有王たちを押しつぶそうとする。 「有王!!」  雪人形に追われ、有王の背に背をぶつけて魅伽がわめいた。 「あの黒い太刀はどうしたのよ!?」 「持ってないよ、そんなもん!」 「なんですって!? ばか! まぬけ! すかぽんたん!」 「……年が知れるぜ、その言葉」  絶え間なく雪人形を叩き壊しながら、有王は左右に目を走らせ、花映と田原坂の無事も確かめる。  田原坂は爆発で飛んできた鉄パイプをふりまわし、花映は腕だけを獣化させ、鋭い爪で人形をなぎ払っているところだった。 「しょうがないわね!」  奇声を上げるジャックの他は、何のエモノも持っていないはずの魅伽がわめき、ケープの中から黒い鞘のついた両刃の短剣を取り出した。 「これで何とかしてよ!」  脇からするりと差し入れられた短剣は、柄に六芒星《ろくぼうせい》が刻まれている。儀式魔術の道具であり、占いの道具にも護符にもなるすぐれものだ。 「五芒星《セーマン》じゃなくって、悪いんだけどね!」 「上等!」  鞘をはらった有王は、短剣を力任せに地面へとつきたてた。 「黄龍が眷属《けぞんく》よ! 偉大なる王の名をもって招請す! 御身を震わせ、歓喜を示せ!」  夜明けの前の闇に、静けさと異なる緊張が走った。  わずかな沈黙に似た静寂の直後には、まさに歓喜の声にも似た地の唸りが響く。  ぐらり、と身動《みじろ》ぎのように地面が動き、それはすぐに小刻みな震動となってそこら一体を震わせ続けた。  魅伽と田原坂は地面に膝をつき、花映はきつい笑みを浮かべて空を仰ぐ。  有王は短剣の柄を握ったまま、すべてが終わるのを待っている。  震動が完全におさまった時には、雪人形たちはあとかたもなく崩れてしまっていた。  わずかに凹凸のある雪面が、人形の残骸と知れるだけだ。  魅伽と田原坂が息をつき、ゆるゆると立ちあがったその瞬間。  逆様に流れる滝のように、周囲の雪が空に伸びた。  四方八方から伸び上がる白い壁は、勢いにまかせて天に立ち上り、急速にその力を失って崩れかかってくる。 「ちっ!!」  有王は田原坂を力まかせに突き飛ばした。  花映が、魅伽の首筋をくわえて、雪の壁を突き破る。  白い雪の壁をどうにか越えた時、彼女は完全に赤金色の被毛をもつ、狼に似た獣の姿へと変化した。  有王は、崩れ落ちた雪の中にいる。  しかし、雪原に取り残された花映たちは、その姿や安否をちらとも確かめることはできなかった。  高く盛り上がった雪の山からは、声一つ、物音一つ洩れ出すことがなかったのだ。  一方、周囲に張り巡らされた糸を避け、崇は十紅子とじっと雪の中に身をひそめていた。  むろん、自分を呼ぶ田原坂の声は聞こえたし、有王が自分に気付いていることも知っていた。  さらには、凍った雪の表面を、嫌な音で踏み砕きながら近付いてくる、大野上と由多の存在も。  だが、突然に立ちあがった雪人形と有王たちの攻防は、遠目にも有王たちの優勢に見えたし、凍える空気の中で、崇は緊張と期待に胸をはやらせていた。  しかし、その有王が突然に雪に飲まれたのを見て、崇は愕然とした。  それは、にわかには信じ難い光景だった。 「有王!」  雪の壁におしつぶされた有王の名を叫び、崇は自分を押さえていた十紅子の腕を振り払った。  こんな場面を見てまでおとなしくしていられるほど、崇は気が長くない。  自分を助けてくれるはずの存在が消えたことではなく、純粋に有王の生命を思い、崇はほとんど無意識のままに行動を起こしていた。 「いけない!」  しかし、子うさぎのように無防備に駆け出した崇の体に、十紅子が後ろから突き倒すようにして抱きついた。  足が滑り、もつれあうように地面に伏す。  その時、崇は、十紅子の右腕が肩からすっぱりと切断されて落ちるの見た。  雪の上に落ちた腕は、すぐに白い砂になって消える。  まるで幻覚のように一瞬の出来事だったが、驚いて顔をあげた崇の目には、右腕を肩から失った十紅子が映った。 「怪我はない!?」  勢い込んで十紅子が尋ねる。  顔は蒼白で、ないはずの呼吸すら乱れているように感じられる。 「十紅子さん、……腕が……!」 「いいの。わたしは、痛みを感じない。それよりも、走ってはだめ」  我が子の安全のみ執心する母親のように、十紅子は崇の全身を眺めた。  体がそれを許せば、おそらくは両腕で崇を抱きしめ、その頭を撫でたであろう。  しかし、十紅子の左腕はだらりと垂れ、右腕はすでに存在しない。 「無駄だよ、崇くん」  軽い足取りで雪原を渡ってきた由多が、足もとの崇を見下ろして馬鹿にしたように、笑った。  頼みの有王は雪の壁に飲まれ、田原坂たちはあてにはできない。  崇が知っているのは、十紅子がこの場所に来たがってたことと、大野上を恐れていることだけだ。  逃げることも進むこともかなわないなら、今の崇にできるのは、大野上と十紅子の間を隔てることだけだった。 「どいて、あぶないから……!」  両腕のきかない十紅子が、言葉で崇を押し退けようとする。  しかし、崇は動かなかった。 「……十紅子」  大野上が、生気のない声で十紅子の名を呼ぶ。  けれども、飛騨古川駅の時とは違い、十紅子は彼の呼び掛けには、全く反応しなかった。  浅黒い顔の中で、ぴくりと大野上の眉が動く。  そして、彼はゆっくりと、懐から黒い塊を取り出した。  銃だ。 「十紅子」  大野上が、再び十紅子を呼んだ。  崇は、背後の十紅子に緊張が走るのを感じたが、やはり彼女は動かなかった。  呪縛の糸を失い、自らの意思で立つ人形は、その時、人形でも人間でもない不思議な存在へと変化した。 「崇くん、どいて……!」  ゆるやかに、十紅子が動く気配がする。  だから、崇もそれに合わせて動いた。  右足首から下がなくとも、十紅子の方が崇よりも少し背が高い。  崇が前に立ちはだかっても、十紅子の顔半分は崇の頭の上に出てしまう。  大野上と十紅子が睨みあう気配を感じたものの、とどかない身長にまでは責任を負いきれなかった。  ただ、十紅子の側から離れないこと。  そして、目の前の二人から視線を逸らさないこと。  今の崇にできるのは、それだけだったのだ。 「どけ、小僧」  静かだが、凶暴な響きを帯びた声で大野上が命じた。 『善良な市民』なら、それだけで謝ってしまうような、ドスのきいた声だった。  しかし、あいにく崇は、それでビビってしまうような性格ではない。  いや、初めて銃を突き付けられた恐怖は堪え難く、大きかったが、背後に庇っているのは、すでに現実や常識を大きく超えた存在である。  おまけに、今まで経験してきた恐怖は、小さな黒い鉄の塊が与える死の予兆よりも、ずっと禍々《まがまが》しく信じ難いものだった。 「おっさん、オレがどかなかったら、射つ気かよ?」  む……、大野上が言葉を飲んだ。 「オレを射って、それからどうするつもりなんだって聞いてんじゃないか」  声が震えた。  怒声で隠そうとしても、どうしても声が震える。  しかし、半分以上は寒さで口が回らないせいだった。 「どけ、小僧。おまえには関係ない」 「あるよ! オレ十紅子さんと約束したんだ」  約束は、夜が明けてからのことだったが、崇はどちらも同じだと思った。  あの言葉が自分に対する十紅子の信頼を表すなら、今の自分はなけなしの勇気で応えるしかない。  突然、弾かれたように大野上の背後の由多が笑い始めた。  体を二つ折りにし、これ以上の冗談はないというほどに笑いながら、由多は冷静な声で大野上に提案した。 「射っちゃいなよ。勝さん。そいつ、殺しちゃってかまわないよ」  しかし、……と初めて大野上がひるむ様子を見せる。 「かまわないってば、死体は『綾瀬』が片付ける。ううん、人形にしてもいいよ。だって、こいつ、十紅子さんのトモダチなんだろう」 「やめて! なんて非道いことを!!」  十紅子が叫んだ。  だが、それが逆に、大野上に決心をつけさせた。  彼は一旦下ろしかけていた銃をかまえ、自分のすぐ前にいる崇に狙いを定めた。  目が血走っている。  混乱しているのは、銃を向けられた崇ではなく、それを手にしている大野上の方だった。 「やめて……!」  十紅子が叫ぶのと、引き金にかかった大野上の指に力がこもるのは同時だった。  崇はすっかり石になっていたから、くるり、と自分の体が反転した時も、あ、射たれた……とひどくさっぱりとした感想しか抱けなかった。  銃の音は軽く、樹間に反響音が響いたものの、爆発音に慣れた鼓膜には、妙に間抜けな空虚な音にしか聞こえなかった。  細い煙が、白い野原に溶けていく。  慣れない火薬の匂いが、つんと鼻腔を刺激した。 「崇くん……!」  一番に声を上げたのは田原坂だったが、崇の耳にはひどく遠くからのように聞こえた。  実際、彼らの距離は離れていたのだが、やはり至近距離で銃声を聞いたせいで、聴覚が少しおかしくなっているようだった。  あれ、痛くないや、と崇は他人事のように考えていたが、背中が妙に冷たいのが気になった。  それに、前には誰も人がいない。  ただ踏み荒らされた雪があるだけだ。 「……十紅子……!!」  大野上の低い声が、雪の上を這ってきて耳に入った。 「あなた、……またわたしを殺すの?」  十紅子の声が背中から聞こえた。  その時になって、ようやく崇は、十紅子が自分と崇の体を入れ替えて、銃に対する盾になってくれたのだと気が付いた。  しかも、射たれたはずの十紅子は立ったままでいる。  あるいは、大野上が驚いて弾道を逸らしたのだろうか。 「違う! 殺したんじゃない! あれは……」 「事故だよ。君は勝手に、谷に落ちたんじゃないか」  由多が平然と言った。  そろり、と十紅子の背中から離れた崇は、彼女の体に三カ所も穴があいているのを目の当たりにした。ぽつぽつと小さなそれは、虫が食った穴のように奇妙で、十紅子の存在そのもののように現実離れしていた。 「あのときさ、あなたは一人でこの場所に来たじゃない? それってさ、殺されたっていいってことじゃないの?」  前に出ようとした崇を、十紅子が全身で制した。  板のように前に立ちはだかられ、崇はその腕ごしにしか前を見ることができない。 「あなたは、勝さんに殺されてもいいと思ってたんでしょう? そうでなくちゃ、一人でのこのこと、こんな場所まで来るほうがおかしいよ」  由多が細い人差し指をたてて十紅子を指す。 「それとも、自分に恋をしている相手を笑いに来たの? 自分を必要としている人間がいるのが、おかしくてたまらなかった? 自分の『存在』に強い力があると感じた? 勝さんを、思うように動かせると思ってた? 自分に敵意をもった人間なんて、一人だっていないと信じてた?」  矢継ぎ早に由多が問う。  その響きは、答えのでない問いを繰り返す子供のように執拗だったが、そのすべては十紅子の耳を風のように掠《かす》めただけだった。 「わたし、は……謝りたかったのよ……」  十紅子が大野上を見た。  彼女が話したいのは由多ではなく、大野上のようだった。 「あなたに謝りたかったの。酷いことを言ったから、……本当に酷いことを言ったから、ただ謝りたかったの。たとえ、あなたが許してくれなくても」 「謝罪など、欲しくない……!」  大野上の吐き捨てるような言葉に、すうっと十紅子の瞳が細くなった。  悲しみに満ちた瞳はただ一つ、涙だけが存在しない。 「あなたはわたしを殺して、人形にした。話すことも、立つことも座ることも、みんな自分の思い通りになる存在にした。あなたの言葉を退けたと言うことが、それほどの罰に価すると、あなたが信じたのは何故?」 「そうじゃない!」  大野上が怒鳴るのと同時に、かくん、と十紅子の膝が折れた。  全身の輪郭がぼんやりと滲み、離れたり重なったりする。  肉体が服ごと透けて、輪郭の向こうに大野上たちの足や雪原が見えるようだった。  辺りの空気が、ほんのりと青味を帯びている。 「毎日、毎日、あなたはわたしを殺し続ける……。わたしの人格を否定して、わたしの存在そのものを踏みにじって……。あなたは、そんなに……わたしを憎んでいたの……?」 「それは、おまえも同じことじゃないか! どんなに懇願しても、どんなに手をつくしても、絶対にこちらを見ようともしない……! もう、一言だって聞きたくなかった! 批判の言葉も、否定の言葉も!」 「それなら、わたしに構わなければよかったのに……。結局、あなたにあるのは、ただ、他人を支配したいという気持ちだけ……。そうすることでしか、自分の存在を確かめる術をもたない……」 「ああ! そうだ! それしか方法がなかったんだ。それしか方法を知らないんだ! おまえの気持ちなんか知るもんか! そうするしかないんだから、生命も気持ちも骨片の一つまで全部支配してやる!」 「……可哀相な人、どうして、自分を哀れむその心で、他人の痛みを察することができないの?」 「うるさい! 喋るな! おまえなんか、何度でも、再生させてやる! 何度だって、人形にかえてやる!」 「もう、終わり……全部」  朝霧のように薄く、十紅子が微笑んだ。  今まで崇が目にした中で、もっとも美しく、気高く、安らぎに満ちた微笑みだった。  ふわっ、と十紅子の輪郭が霞んだ。  空気が、青を過ぎて水色に変わる。  小鳥が鳴き、一等背の高い杉の天辺に金色の光が宿った時、薄い光のベールに似た輝きが、優しく、十紅子の体を包んだ。 「やっと還れる……。……ありがとう……」  一筋の涙に似た影が、白い横顔にかかっていた。  夜明けのもたらす安堵の言葉と共に、十紅子の体は崩れていく。  青灰色の瞳が崇をとらえ、微笑み、そして消えた。  白い砂は雪に溶け、後には赤く塗られた頭蓋骨と絡んだままの銀糸だけが残される。  頭蓋骨の額の部分には、黒く変色した文字で大野上の名前が書いてあった。 「十紅子ぉ……!」  大野上が、身を投げ出すように地を這った。  そこには、見栄も虚勢もない。  もっとも心寄せる『存在』を失って、子供のように泣き叫ぶ男の姿があるだけだった。 「ゲームオーバーだ。……つまんない」  後ろで、事の成り行きを見守っていた由多がつぶやく。  そして、赤い頭蓋を小さな足先でぽーんと蹴とばした。  かつて十紅子であった『物』は、ころころと雪の上をころがり、枯れ草の形のままに雪をのせた叢《くさむら》へと落ちていく。  大野上が、獣に似た声を発して由多に飛び掛かる。  しかし、指一本もふれないうちに、軽くはらった由多の指先の動きのままに、弾き飛ばされて地面に倒れ伏した。 「ホントにつまんないや。菊名翁にいろいろと聞いたから、まだいろんな仕掛けを作っといたのに。全然、ムダなんじゃないか」  ふっ、と由多が大袈裟に息をついたが、崇はそんな言葉など聞いてはいなかった。  有王を飲み込んで以来、長い沈黙を守っていた雪の山が、朝日の中でごそり、と動いたからだった。  終焉《しゅうえん》の予感は覆される。  祈りにも似た期待を胸に、崇はひたすらそちらに視線を注ぎ続けた。  雪の山に押し包まれた有王は、全身の骨が砕けるほどの重みと戦いながら、手にしていた短剣をわずかでも動かすことに腐心していた。  ほんの少し、刃先が体のどこかに当たるだけでいい。  六茫星を刻んだ短剣は、持ち主の性格を反映してか、とても切れ味がよかったからだ。  雪の塊に封じられながら、有王は汗をかいていた。  細い細い穴に糸を通すような心地で、ひたすら短剣のみに精神を集中する。  そして、気が遠くなるほどの努力の末に、ようやく有王は、手の甲を伝う滴りを得ることができた。  血は熱を伝播《でんぱ》する。  熱は、わずかでも雪を水に変える。  血流の熱で膨大な量の雪を溶かすことは不可能だったが、わずかに溶けだした水を媒介にすれば、自分を押し込めている雪塊をはねのける方法がないではなかった。 『北方神にして、水気を司りし黒龍! 偉大な王の紋章に拠りて招請す! 水気の変化たる雪、もとの姿に還せ!』  気で呪文を練り上げる。  それは、封じこめられた手足をわずかに動かすことの数倍も困難な、忍耐と集中力を必要とする作業だった。  しかし、黒龍は召喚に応じた。  左手に流れた血から溶けだしたわずかな水が、とんでもない勢いで上方に向かって躍り上がっていく。  その勢いの激しさに、有王は全身をおろし金でおろされ、バラバラになってしまうような強い衝撃に耐えなくてはならなかった。  黒龍の力が体の表面をすべっていく激痛は、これまでのどんな作業にも劣るものではない。  いや、比べ物にもならなかった。  じゃっ! と朝焼けの空に弾けた水の柱は、大量の雪を押し流しながら十数メートルの上空まで飛び上がった。  そして、突然すべての力を失ったかのように、ただ水と溶けかけた雪となって、その場にいた全員の頭へと降り注いだ。 「きゃああん!」 「うわあっ!」  魅伽が悲鳴を上げて頭を覆う。  田原坂も頭をかばい、ただ一人、獣の姿の花映だけが、わずかに誇らしげな色を瞳にたたえ、雪の下から生還した有王を迎えてくれた。  水飛沫に濡れた被毛は、より美しくきらきらと輝いている。 「有王!」  遠くで崇の叫ぶ声がした。 「何すんのよ、ばか! 傍《はた》迷惑よ、下手くそねっ」  魅伽がわめいたが、有王はそちらへと視線を向けることもしなかった。  所々、黒い土がむきだしになった汚い雪原のむこうに、胸に赤い塊を抱いた崇の姿が見える。  そして、すぐ側に立つ由多の水色のコートも。 「崇……!」  逃げて欲しいが、こちらにこられては困る。  まだ自分たちを隔てる無数の糸は健在なのだ、と思った瞬間、崇の側にいた由多が、無駄のない動きで崇に近付いた。  わずかな手の動きが崇の動きを封じ、遠目にも、その首に細いものが食い込むのが見えた。 「がっ……!」  崇がうめいて首に手をやる。  半身を崇の背後に沈めながら、由多はゆるやかに両手を交差させた。  最小限の動きで崇の首に糸をかけ、その生殺与奪の権を手中に収めたのだ。 「やっぱり、菊名翁を感心させただけはあるよね」  由多が楽しそうに言った。 「あなたなら、ボクと満足させてくれるんでしょう?」 「げっ、ほ……っ」  崇の顔が見る間に鬱血《うっけつ》していく。  由多は歪んだ笑みを顔に張り付け、わずかに瞳を動かして崇の様子を確かめた。 「崇っ!!」 「わめいていないで、糸をなんとかなさいな」  思わず身をのりだした有王を、魅伽が肘でさえぎった。 「接近戦なら、あんな坊やに負けないでしょ? 多少の時間なら、私がかせいであげるわよ」  覚悟のこもった声でささやき、魅伽がケープを脱ぎ捨てた。  下にまとった黒いドレスが、雪の中に立つ一本の朽ち木のように目をひいた。 「坊や、私の所に大野上を寄越した理由は何?」 「うるさいな、そんなの、大したことないじゃないよ」 「そう? あなたのママが教えてくれたんじゃなくて?」  魅伽の問いに、初めは無関心だった由多の顔が、急に真剣味を帯びてきた。  それも、殺意や敵意といった、あまりよろしくない気配をまとっている。  だが、魅伽は臆することもなく、いつの間にか掌に載せたカードの山《パイル》をパラパラと上から下へ、右から左へと器用に|混ぜあわせ《シャッフル》ていた。 「それとも、『綾瀬』とやらは、別の情報網を持っているのかしらね。有王が私の悪友だなんて、ま、調べるまでもないことですものね」  魅伽の声は艶やかだった。  それに呼応するかのように、由多の頬の歪んだ笑みは、完全に害意をはらんだ形相へと変化する。 「黙れよ、三文占者!」 「聞けないわね、坊や」 「ボクは呪術師とやりあいたいんだ。そして、勝つ! それ以外は必要ない。おまえなんか、ただの駒でしかないくせに」 「呪術師をやっつけてどうするの?」 「うるさい!」 「あなたを置いていった、……父親への復讐の代わり?」  どのような法則でカードを展開《スプレッド》させるのか、魅伽は一枚のカードを眼前に示した。 「始まりは、権力者の要請。出会いと交渉。血族の誕生」  淡々とした声で魅伽が告げる。 「聡明な母親。冷淡な関係」  カードが踊る。 「別離と、……ああ、その銀糸は、父親があなたに残したものなのね? そうね、それから、挫折。あなたは呪術者にはなれなかった。呪具を器用に使いこなすだけの、ただの人間」 「その女を黙らせろ!」  さっ、と黒い影が、横から魅伽へと襲いかかった。  しかし、その正体を確かめるよりも早く、花映の爪と牙がそいつを打ち倒した。  乾いた音をたてて崩れた物は、工事のための資材を核とした、ただの人形にすぎなかった。 「……化け物め!」  憎々しげに由多がつぶやく。  獣に変じていた花映は、人形を打ち倒してからも魅伽の足もとを離れなかった。  もちろん、花映が魅伽に服従していたわけではないが、『ただの占者』にすぎない魅伽は、花映という盾を得て、完全に占いに没頭できる状態になったらしい。  足元から目に見えない光がたち上るように気が満ち、すぐに頭上から抜け、魅伽は一本のエネルギーの道と化し、カード繰り続けた。 「正位置《アップライト・アスペクト》。聡明で美しいあなたの母親も、寂しい自分を保つのに懸命ね。そして逆位置《リバースド・アスペクト》。呪術者になれないあなたと、それを認めることのできないあなた。人形に囲まれた孤独な王さま」 「違う!」 「他人を支配し、見下し、……そうすることでしか、自分の存在を保てなかった」  容赦のない言葉だった。  由多はいじめられた子供のように顔になり、ただ意味のわからない怒声を上げる。  奇しくも由多を語る魅伽の言葉は、十紅子が大野上に向けた言葉と酷似していた。 「そして、はかりごとの失敗」 「そいつを殺せ!」  由多の叫びと同時に、それまで雪をかぶって横たわっていたはずの資材たちが、不格好な人形となって魅伽のもとへと殺到した。  花映が必死で応戦し、有王も呪を込めた短剣でそれらを切り倒していく。  すくっと立った女占者は、全身に朝日をあびながら、かけらほども動揺した様子を見せなかった。  襲い掛かる人形たちを避けようという素振りもない。  足は樹木のように地面に根付き、顔は真っ直ぐ天を向いていた。 「花映! もうちょっと頑張ってくれ!」  有王は魅伽の前に立ち、短剣の刃先で自らの腕に一文字の傷を刻んだ。 「赤龍! 血流を道とし、人身に生ずる呪物《まじもの》を焼きつくせ!」  右から左へ、そして、左から右へ。  有王は激しく腕を振るう。  傷から流れ出た血が周囲に飛び散り、白い雪に真っ赤な花を咲かせた。 「何を……!」  有王を嘲笑おうとした由多の顔が、微笑みの途中で凍り付いた。  血は雪のみでなく、由多が張り巡らせていた銀糸にも降りかかり、そこから、とんでもない勢いで赤い炎が走り始めたのだ。 「銀糸は髪の毛だろ? 花映の数少ない情報だ」  炎は、小さいながらも猛烈な速さで糸の上を走っていく。  刃物にも切れない人形の糸が、わずかな炎に嘗め尽くされ、わずかな灰と化して崩れる様はあっけないほどだった。  さらに、糸を走った炎のせいか、ありこちで小さな爆炎があがる。  由多の仕掛けていた爆薬についた火は、主の目論見に逆らい、自然の理に従ったようだ。  爆発の震動に飲まれ、資材で作られた簡単な人形たちもがらがらと崩れおちて鉄の塊へと変じた。 「菊名翁に聞いた通りだ」  由多が静かに言った。  もう、怒っても笑ってもいない。  しかし、双眸から光が失われているわけでもない。 「あんたが、龍を使う呪術者だって……!」  半端だけどな、と有王は胸の内で自分に対しての悪態をつき、ゆっくりとした足取りで崇を捕らえている由多へと近付いていった。 「さあ、これで終わりだろ? 崇を離してくれ」 「まだだよ!」  ぎっ、糸にかかった由多の指が強く引かれる。  崇がうめき、有王は足をとめた。  いつの間にか立ちあがったのか、由多の後ろから銃を構えた大野上が近付いてくる。 「時間無制限のゲームだもん。勇者の死でエンディングかな?」  しかし、由多の言葉よりも早く、有王は大野上の前まで飛んでいた。  その勢いのまま、手にしていた短剣を彼の胸へと突き通す。  ずっと後方で田原坂が悲鳴あげたが、胸から黒い柄を生やした大野上は、茫然とした表情で自らの身の内に収まった異物を眺めていた。  血が一滴も流れない。  倒れもしない。  大野上がうつろな目で有王を捕らえ、それから、首だけを巡らせて由多を見た。  ちくしょう……、と少年が小さくつぶやき、それが、大野上の聞いた最後の言葉になった。  ばさり、と大野上の体が地面に崩れ、踏み荒らされた雪原を赤い頭蓋骨が転がっていく。  大野上をつらぬいた短剣は、支え手を失って地面に落ちた。 「……なんで分かった?」 「そいつは、彼女の骨を拾わなかったからな」 「そんなことか。……じゃあ、あんたの好きな女を殺してやる。人形にしてやる。そしたら、あんたは、はいつくばってその女の骨を拾うんだろう?」 「……いくら『綾瀬』でも、『彼女』に手出しすることはできないだろう」 「どうだかね!」  由多の唇が、再び笑いに歪んだ。  一旦ゆるんでいた糸が、ぴんと張って崇を苛み始める。 「その前に、こいつの首を落としてやる。また新しい人形で、新しいゲームを始めるんだ」 「い、っ!」  痛い、とも言えず、崇は爪で由多の手の甲をひっ掻いている。  歯を食いしばった顔は真っ赤になり、腫れて、むくんでいった。 「崇……っ!」  その時、その場にはあまりにもそぐわない現象が起こった。  赤い塊が由多の後方から突っ込んできて、そのまま後頭部に激突したのだ。  無防備だった由多は、頭を後方から叩かれた場合の定石通り、前につんのめって崇の後頭部に額をぶつけた。  二人の少年は、もつれあって地面に倒れ伏すかにみえたが、今度は有王の後方から走り込んできた花映が、上手に由多だけを地面に伏せて、白い牙をひらめかせた。 「げぼっ!」  四肢の下に由多をねじふせ、今にもその喉を食いやぶろうとした赤金色の獣の尾を、やはり地面に倒れていた崇が掴んだ。  喉を圧迫されいたせいで、はっきりとした発音ができないのだろう。 「やめっ、……やめて、っ。……ころしちゃ、……ダメだ!」  う……、と獣が喉を鳴らす。 「従兄弟だろ? 嫌いでも、……どんな理由があっても、……殺しちゃだめだ」  涙と鼻水と涎にむせびながら、崇が切れ切れの言葉で制止する。  首を巡らせた花映に、崇に手を貸しつつも有王もうなずいて見せた。 「ダーメヨ、ダーメヨ」  頭上では、大きな殊勲をあげたジャックが、緊迫感のない声をふりまいている。  多少は納得のいかない素振りを見せたものの、花映はおとなしく由多から離れた。  しかし、由多はすぐには起きあがらなかった。  雪の上に仰向けになったまま、薄い黄金と紅色の混じりあった夜明けの空を眺めている。  そこにいるのはスネている一人の子供で、とても何人もの人間の人生を手玉にとろうとした『傀儡師』には見えなかった。 「つまんない……」  のろのろと起きあがりながら由多がつぶやく。 「リセットできるんなら、ホントにゲームと違いないよ……」 「馬鹿野郎!」  有王は怒鳴った。  由多を殺すことは考えもしなかったが、胸の内には抑えようともない怒りがたぎっている。 「なにがリセットだ! 自分のしたこと、その目でしっかり見ろ!」 「こんなの、大したことじゃない……」  ぐるりと辺りを見回し、無感動に由多が答えた。  何人死のうが傷付こうが、何を利用しようが破壊しようが、彼はそこに何の意味も見出せず、何の現実感を抱くこともないようだった。 「終わりだね」  すっ、と由多が両手を上げた瞬間、そこいら一帯から、これまでとは比べ物にならないほどの爆発が起こった。  炎と熱風が荒れ狂い、破壊された資材のかけらが、つぶてのごとく飛び散ってくる。  地面は轟音と共に揺れ、魅伽を除く全員が顔をおおい、意思をもたぬ凶器から身をまもろうと地面に倒れ伏した。 「魅伽さん! 危ない!」  魅伽の真後ろにいた田原坂が、かばうように魅伽の体を押し倒した。  かすかな衝撃が胸に感じられたが、爆風がひどくて考えているヒマがない。  爆音が止み、顔を上げられるようになるまで、かなりの時間がかかったような気がしたし、風や熱が少し引いても、今度は煙が皆を苦しめた。 「あのやろうっ!」  首を後ろを押さえながら有王が起きあがった時には、当然のごとく由多の姿は消えていた。  コートや靴を焦がし、髪を縮らせて地面に伏した田原坂と魅伽に歩み寄ると、彼らは一様に激しく咳き込んでいた。  その近くでは、細い針ににたナイフが白いうさぎの柄のネクタイの端を、焼け焦げた地面に縫いとめている。  有王の見知ったそのナイフは、菊名翁が使っていたものに間違いはなかった。  咳き込みながら、田原坂が立ちあがった、下敷きになった魅伽は憮然としていたが、それでも田原坂が手を貸すと、礼を言うくらいの冷静さは残っていたらしい。  ありがとう、と高飛車に言い、熱で縮れた髪を忌ま忌ましげにかき上げた。 「いたずら坊やね」  そんな可愛らしいものではないと思ったが、魅伽がひどく腹をたてているので有王は黙っていた。  周囲はすっかり地形が変わり、雪もなくなって別世界のようだ。  黒煙が晴れれば元の風景に戻るかもしれないが、それまでは魅伽と言い合うのは頼まれたって御免だと有王は考えた。  それでは、一見無能に見えた田原坂の、逆転満塁さようならホームランに等しい働きぶりは伝えておくべきだろうか? 「魅伽、田原坂さんにちゃんと礼を言ったほうがいいぜ」 「なんでよ?」 「ほら、見ろ」  ナイフとネクタイの切れっ端を示すと、魅伽はきょとんとしたが、田原坂はこの世の終わりのような声を上げて胸元をさぐった。 「ネッ! ネクタイが……っ!」 「……? いや、ネクタイの話じゃなくて……」  田原坂の狼狽ぶりに響き、有王は話を本筋に戻そうとする。  あの爆煙の中で、魅伽の生命を狙ったに違いない。  自分の生い立ちをカードで暴露した魅伽が、由多にはどうしても許せなかったのだろう。  魅伽が助かったのは、田原坂がこの上にないタイミングで突き倒してくれたおかげだ。  それなのに、突き倒したという事実だけとらえて、腹をたてられるのは不公平というものだ。 「魅伽が……」 「ああああ〜っ! 呪術でネクタイが元にもどりませんか!?」 「そんなの、ムリだよ……」 「……うう……、由香里に殴られる……」  未練がましくネクタイの先をくっつけようとし、田原坂は悲嘆にくれている。 「由香里って、田原坂さんの彼女?」 「妹ですってば、……あれ? 崇くん?」  いつの間にか傍らに立って、にやにやとつっこみを入れてきた崇を認め、田原坂が不思議そうな顔をした。  崇の後ろに人型に戻った花映が、いかにも重そうな崇のコートを羽織って立っている。  裸足だが、ちっとも気にしている様子はなかった。 「無事だったんですね!? 怪我もなくて!」 「そ。田原坂さんは、オレより先にネクタイの心配してたけどね」  平気だったぜ、と崇は親指を立てて見せた。  それから、少しだけ目線を落とし、胸にかかえた十紅子の頭蓋骨を有王の前に差し出した。 「十紅子さんの骨、お父さんたちに届けてあげてもいいか?」  駄目だとは言えない。  それほど、崇の瞳は真摯《しんし》な光をたたえて有王を見つめている。  崇がこの一件に関わらなければ、あるいは、有王は十紅子を骨に戻すことで事態を収拾したかもしれない。  面倒も危険もなるべく回避すること、それは、呪禁師としての有王の定めた一つの原則でもあった。  第一、呪術者の有王には、どうしても十紅子が『人間』だとは認識できなかった。  事実、田原坂が助け、崇が守った『倉内十紅子』は人間ではなかったのだから。  骨にしみついた残留思念。 『倉内十紅子』を動かしていたのは、伝えることのできなかった彼女の想い、それだけだった。  十紅子の思念は崇を守ろうとしたのだろうが、結局『人形』はいいように崇を利用したともいえる。  彼女は『正』でも『負』でもない、あってはならないものだった。 「……そうだな。崇がそうしたいんなら、つきあってやるとするか」  くしゃっ、と崇の髪の毛を押さえ、有王は少しだけ笑った。  崇もにやりと笑い、それからわずかに顔をゆがめた。  伏せたまぶたに押されて、大粒の涙が頬を流れる。  雪と樹木に囲まれた戦場跡は、静かな寒気と朝の光に包まれていた。 「なあ、有王。あれもやっぱり呪術なのか?」  車の後部座席に乗り込んだ崇が、運転席の田原坂からパンと牛乳の入った袋を受け取りながら尋ねる。 「それとも、十紅子さんは成仏してねぇってこと?」 「成仏なんか、関係ないさ」  助手席で、狭そうに体をゴソゴソさせながら、有王も田原坂から袋を受け取った。  小さな町にもコンビニはあるようで、早朝でもパンや飲み物が手に入るのはありがたい。 「だって、影に出たじゃん」  十紅子の家を訪ねた崇は、当然のごとく、十紅子の両親の猛反発に遭った。  娘の失踪をエサにして、かなり怪しげな連中が出入りしたらしい。  しかも、十紅子さんの骨ですと言って差し出されたものが赤く着色された頭蓋骨とあっては、怒り心頭の状態になったのも無理はない。  さらに、有王も崇も泥だらけで、衣服のあちこちが焼け焦げている。  おまけに、有王は左腕から、薄く血を滲ませている有様だった。 『でも、ホントに十紅子さんの骨なんです』  罵声を浴びながら、崇が繰り返した。  腹が立たないはずないが、十紅子との約束を守りたい一心で我慢していたのだろう。 『十紅子さんが、帰りたいって言ってたから……』 『どけ、崇』  罵《ののし》られ放題の崇を見兼ねて、有王は崇の手から頭蓋骨を取り、玄関先においた。 『証拠を見せますよ』  靴のかかとからナイフを抜き、わずかにひるんだ十紅子の両親を後目《しりめ》に、有王は頭蓋骨に書かれた黒い文字を馴れた手つきで削りとった。  途端に頭蓋骨が白く光り、そこから陽炎のように十紅子の姿が浮かびあがる。 『十紅子、っ!!』  最初に反応したのは母親だった。  両手を伸ばし、通常よりもかなりサイズが小さい娘の幻影を抱きしめようとする。  両腕が宙をきり、勢いあまって膝で頭蓋骨を蹴飛ばしても、母親は消えていく娘の影を捕らえようと叫び続けていた。 『……どうぞ、お返ししますよ』  たたきに転がった頭蓋骨を、再び母親の前に置く。  すでに輝きを失っていたそれは、ふっと大きな溜め息をついたように揺れ、細かいひびが入って崩れていく。  後には、コーンフレークに似た白い骨片が小さな一山を築くのみだった。 『行こう、崇』  長居は無用とばかりに背を押し、崇はそのまま、少し離れた場所にとまっていた田原坂のレンタカーまで走った。  後ろから、十紅子の両親の何か叫ぶ声が聞こえたが、立ち止まることは許さなかった。 「あれは、手品みたいなもんだよ」  早々に走り出した車から、平和そのものの風景を眺めやり、有王は大きく息をついた。 「田原坂さん、何か食うか? 言ってくれれば、袋をやぶるけど……」 「私はいいですよ」  田原坂が左手を軽く振る。 「なんだか、胃が悪くて。途中でおなかがすいたら食べますから、先に召し上がって下さい」 「花映と魅伽は?」 「寝てるよ」  すでに口いっぱい頬張ったパンに言葉をくぐもらせながら、崇が親指で後ろ指を指した。  振り向くと、二人はお互いに頭をもたせかけあって、やすらかな寝息をたてている。 「ねえねえ、有王。こっちの派手な姉ちゃんって、有王の彼女?」  音を立ててジュースを飲みながら、事情を知らない崇は恐ろしい言葉を口にした。 「冗談でも言うなよ、そんなこと」 「じゃ、田原坂さんの?」 「初対面ですよ。崇くんよりは、数時間早く知り合いましたけどね」  東京駅で崇が出会っていたことを知らない田原坂が、ハンドルを握ったまま苦笑した。  一緒にいるだけで彼女なら、それこそ人もうらやむ生活かもしれない。 「魅伽さんは、占者だそうですよ」 「センジャって、占い師だろ? あの由多ってやろうを、すげぇ怒らせてたもんな」 「そんなに腹をたててたか?」 「うん、オレ、すぐ近くにいたからさ。ホントに、すっげー怒ってた。首にかかってる糸が、ブルブル震えてんのが分かったもん」 「……意外に余裕だったんだな」  あんな状態で、他人の動揺ぶりをよめるなんて大物だ。  有王は軽く言いながら、内心こっそりと舌を巻いた。 「余裕なんか、あっかよ」  かぶり、とパンに怒りをぶつけつつ、崇が声を荒くする。 「マジ、殺されるかと思ったんだからな!」 「ふうん、……そんなに腹をたてた、か」  崇が危険になったのが魅伽のせいなら、崇が殺されなかったのも、まさしく魅伽の占いのおかげだろう。  あの時、崇の首にかかった糸に力をこめながら、由多の殺意はすべて魅伽の方を向いていた。  それほど、魅伽の言葉は的確だったのだ。 「それで、どうなんですかね?」  ふいに田原坂が問う。 「何が?」 「ですから、魅伽さんのおっしゃったことですよ。由多という少年が呪術者じゃない、とか何とか……。私、魅伽さんに意味を聞きたかったんですけど、ひどくお疲れで、工事現場からもまともに降りられない状態だったでしょう?」 「あいつは、多分、自分の言ったことは覚えてないよ」 「覚えてないって」 「完全にトランス状態に入ってたからな。憑き物が憑いたような状態というか、完全忘我の状態というか」  全然イミが違うな、と有王は自分で自分の説明につっこみを入れた。 「でも、まあ、魅伽の言ったことは当たってるな。あの由多って小僧は、正確に言えば呪術者じゃない。呪力があったのは、それこそあの銀糸の方で、あいつはただ呪具を器用に操っていただけだ」 「それじゃあさ、糸があったら、有王にもあんなコトができるのか? オレとか、田原坂さんとかもさあ」 「崇たちには無理だな。おれも、……絶対に無理かどうかは断言できないが、向いていないことだけは確かだよ」 「向き不向きがあるんですか?」 「そりゃあな。あの由多って奴も、呪術者じゃないけど、呪具はあいつを主と選んでたからな。だから、あの銀糸をつかって俺がどうこうするのは、……無理というか、無駄というか……」 「素質、ということですか?」 「どうだかなあ。……簡単な呪術なら、素人だって出来ちまうこともたくさんある。呪詛《じゅそ》も絶対に無理ってことはない、……が、たいていの人間は、自分の内側に生じた呪力を支えきれないし、それが外に出ると、もうコントロールもきかなくなってしまうんだ」 「有王にはできるってワケだ」 「……なんとなく、な」  できるというか、やらされているというか……。 「それで、匠さんのおっしゃっていた『血筋』じゃないという話に納得がいきました」  田原坂が明るい声で言った。  車は、いつのまにか国道に乗って、一路名古屋を目指している。 「崇くんも無事だったし、本当によかったですよ。……千切れたネクタイがもとにもどれば、それこそ万々歳なんですけどね」  少し声のトーンを落とし、田原坂はしみじみとした調子で嘆いた。  あんな場面で、田原坂にあんな台詞を叫ばせるのだから、彼の妹というのも相当なつわもののようだ。 「なんか、田原坂さん、苦労してんだなー。はやく、彼女つくって、妹と対決してもらえればいいのに」 「止めてくださいよ。由香里だけでも手に負えないのに、も一人、あんな彼女をつくってどうするんです!?」  もう勘弁してください、と田原坂が懇願めいた口調で言う。 「私も有王さんみたいに、スマートだったら良かったんですけどね」 「どっこがスマート?」  崇の否定は本気だった。 「料理オタクの若年寄だぜ。オレ、この場に有王の昔の友達が出てきて、ホントはタラシだったと言っても、絶対に信じられねえ」 「崇……おまえ、そういうこと言うか!?」 「ホントのことだろっ!」  無理に体をひねって繰り出した有王の拳骨を、崇がシートにへばりつくようにして避ける。  上げた右手のアンパンに、シートにとまっていたジャックががぶり! と齧りついた。     エピローグ  名古屋駅についた有王が一番にしたことは、花映の靴を購入することだった。  いくらなんでも、裸足のままで新幹線に乗せるわけにはいかない。  本音を言えば全員の服装と、自分の左腕の傷もどうにかしたいところだったが、そこまではかまいきれなかった。  新幹線に乗るころには魅伽が起き、今度は崇が花映と重なりあって惰眠を貪る。  一晩中の強行軍と緊張感による精神の張りも緩んで、それこそ生まれ立ての赤ん坊のように無防備な眠りについた。 「……疲れたわ」  せっかく湯治にいったのに、と魅伽は奇妙なことを言う。  田原坂は首を傾げたが、有王は馬鹿にしたように嘆息して、 「大野上を強請《ゆすり》に行ったんだろ?」  と決め付けた。 「ビルの爆破は予想外だったもんな。取れるところから取る。おれを脅す気かと思っていたが、もっといい金づるがあったからなあ」 「そうよ」  ふん、とそっぽをむいたが、魅伽は案外あっさりと自分の企みを白状した。 「あんたから回収なんて、逆さに振ったって無理だからね。ダム工事の不正があれば、そのネタでよし。『傀儡』がらみのネタがあれば、それでもよかったんだけど……」  語尾は小さく、魅伽の口の中に消える。 「……倉内さんがかわいそうになったんですね?」 「まあね」  田原坂のストレートな物言いに、むっとした顔付きになったものの同意する。 「占者ってのはさ、呪禁師よりも、よっぽど死者に近いからね。そこに残った思念の濃い薄いが、まるで生きている人間の思念のように感じられちゃってね」  ぼりぼりと後頭部をかきながら、魅伽が続ける。  すっかり打ち解けたその態度は、服装とは完全にミスマッチだった。 「あのコ、あのお馬鹿な男が好きだったのよ。そうでなきゃ、あんなに『しっかり』した傀儡ができるわけないんだわ。……そうでしょ、有王?」 「しっかり、ねえ……」  確かに、十紅子の傀儡としての出来映えは、かつて見たことがないほどのものだった。  しかし、死んだばかりの新鮮な死体から骨を取り出し、彼らがどんな手順をもって『再生』の儀式を行ったのか、考えるだけで背筋が寒い。 「それにしても、……大野上さんまでが傀儡だったなんて……」  頭がグラグラしますよ、田原坂が息をついてみせる。  十紅子の精巧さを数倍も上回った『大野上勝』は、いまだに納得できかねる存在感を皆の心に残していた。 「あのコをつくったのは、由多って子じゃなくて、大野上勝なんでしょう?」 「だろうな。彼女は大野上の言葉に反応していたからな」  それなら、大野上の部屋を滅茶苦茶にしたのは、大野上自身ということになるのか?  あるいは、大野上が十紅子にそれを命じたのか?  傀儡が傀儡を御する。傀儡が傀儡と言葉を交わす。  最後の瞬間まで、大野上は自分が傀儡であることを意識してはいなかった。  だがいくら傀儡師が優れていても、そんなことが起こり得るものなのか? 「田原坂先生は、好きな相手を傀儡にしちゃう気持ちが分かる?」  魅伽の言葉が、有王の思考を遮った。  再び『先生』に昇格した田原坂は、両手をあわせて小首をかしげる魅伽を銀縁の眼鏡越しに不思議そうに眺めやった。 「魅伽さんはどうですか?」 「つまんないわね」 「……ですね。立つのも座るのも思いのままなんて、やっぱり、それは人形でしかない」 「部屋の隅で埃をかぶらせちゃったりしてね」  あははは……、と魅伽が乾いた笑い声をたてた。 「あんたはどう、有王?」 「……興味ないね」  興味、いや、関心があるのは、『綾瀬』が何のために大野上と接触をもったか、だ。  ダム工事の理由。  由多が傀儡を作るのに手を貸した本当の理由。 『綾瀬』という集団の、存在の意味だ。 「そうよねーっ」  ふと顔を上げると、魅伽が迷惑に感じるほど笑いを含んだ瞳で有王を見つめている。 「あのね、田原坂先生。有王はね、糸がなくても生身の人間を傀儡にする方法を知ってんのよ」 「本当ですか?」 「嘘だよ」 「ホントよ。見込んだ相手を、それこそ傀儡みたいに踊らせちゃうほどの女ったらしだったんだもの。……五年前まではね」 「魅伽!!」  思わず、怒声に殺気がこもった。  この場に田原坂がいなければ、有王は本気で魅伽を殴ってしまっていたかもしれない。 「なーによ」  魅伽はちっとも怯《ひる》んでいなかった。  それどころか、身をのりだし、挑戦的な視線で有王をねめつける。 「怒ったって怖かないわね。あんた、半人前の呪禁師だもの」 「……悪かったね」 「悪かないわよ。それでいいって自分で思ってるんならね。だけど、田原坂先生や花映や崇くんは迷惑なことだわ。あんたのせいで、あわなくていいはずの危ないメにあわなきゃならないんだから」 「……ちょっと、魅伽さん」 「本当のことよ、有王。一流の占者の私が言うことよ。本気で心に刻んでおきなさいな」 「そうするよ」  魅伽がのりだした分だけ、有王は後ろにさがった。  背中をシートに強く押し付け、窓べに肘をつく。  すねた少年のような有王の態度に、魅伽がにこっと笑った。 「一人前になれる方法、私は知ってるんだけどねえ。聞きたい?」  有王は躊躇した。 「聞いたら、一生私に頭があがらなくなるよ。それでも聞きたいんなら、教えてあげる」 「……遠慮しとくよ」  嘆息して両手をかざした有王に、魅伽も身をひいてシートに背をもたせかけた。 「分かったわ」  だから、あんたは半人前なのよ、と魅伽がこっそりとつぶやいたが、その言葉は田原坂の耳にしか届かなかった。 「もうすぐ東京ね」 「そうですね」  田原坂が嬉しそうに魅伽の言葉に相槌を打った。  ゆうべ出てきたばかりの東京が、長い旅を終えてきたように懐かしい。 「土田さんの指の捻挫、どうなったかな……」  眼鏡を外して目を細め、田原坂がつぶやいた。 「それって、田原坂さんを殴った客か?」 「そうですよ。私、あれっきり彼の具合を聞いてませんからね。ずっと気になってるんです」 「ずっと……?」 「まあ、時々です」  田原坂も大物だ、と有王は崇に続き、再び舌をまく羽目になった。  自分は、十紅子の一件に動転して、『辻』のことすら失念していたというのに、彼らはちっとも自分をとりまく現実を見失っていない。 「すごいな……」 「何がです?」  きょとんとした田原坂の問いと同時に、車内アナウンスが東京到着間近と告げた。 「あー着いたわ。逢坂くんの調査の礼金、どうしよっかなーっ」  ぐん、と天井にむけて両腕をのばし、魅伽は座席に置いてあったケープとトークをとった。 「まあ、おいおい考えることにするわ。新しい住所が決まったら連絡するから、引っ越し祝い、よろしくね」  眠る崇の腕からジャックをそっと連れ戻し、魅伽は立ちあがった。 「それから、今回の件は貸しにしとくから、それもいつか返してよね」  さっさと行ってしまえ、という態度でいた有王は、魅伽の言葉に弾かれたように身を起こす。 「ばっ、馬鹿言うな! おまえ……!」 「だーって、うちの仕事場が爆破されたの、有王のせいみたいじゃない? それに、ほら! 見てよ、このチリチリの髪」  これ見よがしに魅伽が持ち上げた豊かな巻き毛は、確かに縮れてひどく傷んでいるようだった。  有王が黙ると、勝ったとばかりに微笑を浮かべ、軽く手を振った女占者は静かに通路を去っていく。  お疲れさまでした! と田原坂が体育会のような別れの挨拶を口にした。 「やっぱり、あいつは魔女だ……」 「でも、魅伽さんがいてくださって助かりましたからね」  穏やかに有王の言葉を退けて、田原坂は崇と花映を揺り起こしにかかる。  先程の魅伽の言葉の真意を聞かれるのではないか、と内心で構えていた有王は、拍子抜けしたような、ありがたいような奇妙な心地を味わった。             了